第3章 第10話 決める線
次の火は、まだ起きていなかった。
なのに、校内の空気はもう、何かが燃えたあとみたいに乾いていた。
朝のホームルーム前、教室の後ろでひそひそ声が重なっていた。机に鞄を置く音より先に、誰が何を見たらしい、昨夜また匿名の紙が貼られていた、西棟の前で見張っていた生徒がいた、そういう断片が飛んでいる。噂は、いつも内容より先に速さで人を支配する。
黒板の横には、剥がされた紙の跡が残っていた。四角く白い。そこに何が貼られていたのかを知らなくても、誰かが急いで剥がしたことだけは分かる跡だった。
「おはよう、名探偵」
杉浦が、いつもの調子を半分だけ残した声で言った。完全な冗談ではなかった。からかいというより、どうするんだ、と聞いている顔だった。
光一は席へ鞄を置きながら、すぐには返事をしなかった。
前なら、その一呼吸のあいだにもう答えを探していたはずだった。今は違う。飛びつくより先に、どこが燃えやすいかを見る。その違いを、光一はもう自分で分かっていた。
「俺は……まだ決めない」
教室の空気が、一瞬だけ静まった。
それで終わらせず、光一は続けた。
「でも、止めるべきことは先に決める」
杉浦が目を丸くした。
冗談半分だった空気が、そこで少しだけ変わった。澪は窓際の席からそのやり取りを見ていた。あの言葉は、もうただの保留ではない。光一が自分に課している手順になっている。けれど、その手順がいつも間に合うわけじゃないことも、二人はここ数日で嫌というほど思い知らされていた。
ホームルームが終わると同時に、澪は立ち上がった。
「管理室」
「分かってる」
「西棟前も見る」
「そっちは僕が行く」
「決めた?」
「止める方だけ」
短い会話だった。
でも、今の二人にはそれで足りた。何を先に押さえるか。何をまだ保留するか。そういう線引きだけは、前よりずっと早く共有できるようになっていた。
西棟へ続く渡り廊下の手前には、朝から教師が二人立っていた。立入禁止の札はそのまま、さらに簡易のロープまで張られている。表向きは安全確認のため。けれど実際は、噂で集まる生徒を近づけないためだろう。
その足元に、コピーされた紙が一枚落ちていた。
光一は拾い上げる。
古い避難経路図だった。
西棟一階、旧配電盤室、倉庫、非常階段。赤いマーカーで三か所だけ丸がついている。そのうち二か所は、三年前の火災の記録に出ていた場所と一致していた。
「……やっぱり」
光一がつぶやいた時、背後から澪が来た。
息は上がっていないが、歩幅だけがいつもより少し早い。
「管理室の鍵貸出票、抜かれてた」
「どこの分」
「西棟。昨日の夕方の列だけ」
「誰かが見たあとで消した」
「たぶんね」
澪は光一の手元の避難経路図を見ると、すぐに眉を寄せた。
「それ、去年の文化祭準備室にも貼ってあった形式」
「覚えてるのか」
「紙の端の色で分かる」
そう言って、澪は紙の余白を指先でなぞった。薄い灰色の汚れ。コピー機のローラー癖だ。新しい紙じゃない。校内のどこかに残っていた原本を、最近もう一度流した痕だった。
「噂を広げたいだけなら、ここまで具体的にしない」
澪が言った。
「人を動かしたい」
「しかも場所を指定して」
「今夜」
そこまで言って、二人は同時に黙った。
今夜。そこまで決めつけるのは早い。けれど、待ってからでは遅いかもしれない。
光一は紙を二つ折りにしてポケットへ入れた。
「神代先生に話す」
「全部?」
「全部じゃない。集まりそうな場所だけ先に止める」
「原因は」
「まだ決めない」
澪は小さくうなずいた。
その判断は、最善ではないかもしれない。でも、今この瞬間の被害は減らせる。二人がようやく辿り着いたのは、そういう選び方だった。
昼休み、神代玲奈は職員室の奥で資料を閉じたまま二人の話を聞いた。
最後まで遮らず、ただ目だけが少しずつ冷えていった。
「つまり、今夜、西棟の近くへ誰かを行かせたくないってことね」
「はい」
「でも、根拠の全部はまだ言えない」
「言える段階じゃないんです」
光一が言うと、神代は少しだけ息を吐いた。
「そうやって抱えるの、あなたたちの悪い癖よ」
「分かってます」
「分かってるなら、せめて優先順位くらいは間違えないで」
その言葉は叱責だったが、拒絶ではなかった。
神代は少し考えてから、今夜の校内見回り当番を変更し、西棟側の巡回を増やすとだけ言った。理由は防火設備点検。表向きの名目としては十分だ。
職員室を出たあと、光一は廊下の窓にもたれた。
「怒られたな」
「でも動いてくれた」
「全部は話してないのに」
「全部話してたら、逆に止められてたかも」
澪の言い方は冷静だった。
けれど、その指先は制服の袖を少しだけつまんでいた。迷っている時の癖だと、光一は知っている。
「澪」
「なに」
「今の、正しかったと思うか」
その問いに、澪はすぐには答えなかった。
「正しいかは分からない」
少ししてから、澪は言った。
「でも、今はそれでいいと思う。正しさより先に、減らせるものを減らす方がいい」
光一は目を伏せた。
その言葉が救いだった。責任を分けるための言葉ではなく、選択を共有するための言葉だったからだ。
放課後、校内は妙に静かだった。
噂が大きくなりすぎると、逆に声は小さくなる。誰もが誰かの反応を見ているからだ。文化祭準備室の前を通ると、柏瀬直人が一人で掲示物の紐を結び直していた。
「篠宮さんは?」
「図書室」
「そう」
直人はそこで言葉を切った。
少し前なら、その沈黙は気まずさだったかもしれない。今は違う。ただ、お互いに無理をしない長さで止まっているだけだった。
「雨宮」
「ん?」
「今夜、何かあるのか」
真正面から訊かれて、光一は一瞬だけ詰まった。
直人はもう、部外者ではない。けれど巻き込みたくもない。
「あるかもしれない」
光一はそう答えた。
「だから、今日は早く帰れ」
「それ、篠宮さんにも言うの?」
「澪は帰らない」
「だろうね」
直人は苦くもなく、ただ静かに笑った。
「じゃあ、せめて一人で背負うなよ」
「……分かってる」
「分かってる顔じゃない」
そう言い残して、直人は教室棟の方へ歩いていった。
図書室では、澪が閉架記録とにらみ合っていた。
西棟関連の古い設備図面は、昨日から今日にかけてさらに二冊抜かれている。その代わり、返却棚の隅に関係のない文集が二冊紛れ込んでいた。目くらましだ。誰かが、抜いたことにすぐ気づかれないよう時間を稼いでいる。
「露骨」
光一が言うと、澪は本を閉じた。
「焦ってるんだと思う」
「今夜動くから?」
「今夜動きたい誰かがいる。だから、その前に見られたくない紙を消してる」
言いながら、澪は一枚のメモを差し出した。
図書室の返却本に挟まっていたらしい。
『待たないなら 今夜 見ればいい』
文字は雑だった。
けれど雑なふりをしているだけで、本当は癖を消して書いている。そういう不自然さがあった。
「誘ってる」
光一が言う。
「うん」
「僕らを」
「たぶん、他の誰かも」
そこまで読んだところで、図書室の外でざわめきが起きた。
二人が出ると、廊下の先で二年の生徒が数人、スマホの画面を囲んでいた。誰かが校内掲示板の匿名投稿を見せている。
そこには、短い一文だけが出ていた。
『四つ目は今夜終わる』
嫌な書き方だった。
終わる、ではなく、終わらせるでもなく、終わる。
誰かの意志をぼかして、出来事だけが勝手に起きるように見せる言い方だ。
「消せる?」
光一が訊くと、澪は首を振った。
「投稿元はすぐ消えても、スクショは残る」
「だよな」
光一は数秒だけ目を閉じた。
ここで、まだ決めないと言うだけなら、もう遅い。
今夜、何かが起きると決めつけるのは危うい。けれど、起きるかもしれないことを前提に塞ぐ必要はある。
「澪」
「うん」
「西棟の外周、教師に任せる」
「中は?」
「僕らで見る」
「二人で?」
「二人で」
澪は少しだけ迷う顔をした。
それは怖がっている顔ではなかった。責任の重さを測っている顔だった。
「分かった」
彼女は言った。
「でも、何かあったら止まらないで呼んで」
「お前も」
「うん」
夜になってから、校内は妙に明るかった。
見回りを増やしたせいで、普段は消えている廊下灯まで点いている。それでも、西棟へ続く渡り廊下の先だけは、別の建物みたいに暗く見えた。
ロープの前に立った時、光一はふと合宿の夜を思い出した。
焦げた匂い。暗がり。次に起きるかもしれないことを前に、どこまで踏み込むかを選ばなければならなかった夜。
あの時より、今の方が静かだった。静かな分だけ、失敗した時の音が大きそうだった。
「光一」
澪の声が、横から落ちてきた。
「なに」
「今日、もし止められなくても」
「うん」
「それを一人の判断にしない」
光一はすぐに返事をしなかった。
その代わり、短く息を吐いてから言った。
「分かってる」
「ほんとに?」
「……努力する」
澪が少しだけ笑った。
笑う場面じゃないのに、そういう顔が見られるだけで救われることがある。
その時だった。
渡り廊下の向こう、暗い西棟の一階で、何かが割れる音がした。
乾いた、短い音だった。
次いで、灯りが一つ、また一つと落ちた。
完全な停電ではない。
けれど、人を十分に焦らせる暗さだった。
「行くよ」
澪が言った。
「うん」
二人はロープを外した。
決めないまま待つのではなく、決めきれないままでも動く。
今夜必要なのは、たぶんそっちだった。
西棟の暗がりへ足を踏み入れた瞬間、焦げた匂いがはっきりした。
しかも、火だけじゃない。薬品みたいな、鼻の奥に残る嫌な匂いが混ざっている。
「これ……」
澪が言いかけた時、さらに奥で誰かの咳き込む声がした。
光一と澪は、同時に顔を上げた。
次の事故は、もう始まっていた。




