第3章 第9話 先に守るもの
煙の匂いは、火が見えなくなったあともしばらく残った。
昨日の小さな騒ぎは、教師たちによって「理科準備室の配線トラブル」と説明された。朝のホームルームでも、それ以上の言葉はなかった。気をつけろ、勝手に近づくな、噂を広げるな。どれも正しい。正しいのに、それだけではもう足りないと、光一には分かっていた。
足りないから、噂は止まらなかった。
四つ目の事件。
西棟の火災。
隠された目撃者。
そして、それを今も知っている人間。
昼休みの教室では、笑い声に混じって名前が落ちた。
「神代先生って、三年前もいたんだろ」
「いや、でも点検会社の人とも話してたって」
「じゃあ、やっぱり――」
そこで言葉は途切れた。神代玲奈本人が教室の前を通ったからだ。
誰も何も言わない。けれど、言わないこと自体がもう視線になっていた。
光一は机の上のシャープペンを指で転がした。
まだ決めない。その言葉は、今も間違っていないと思っている。早く決めすぎれば、また誰かを雑に切り分けることになる。けれど、決めないまま放っておけば、空気の方が勝手に誰かを犯人にする。
そこが、前よりずっと厄介だった。
「顔、悪い」
斜め後ろから澪の声がした。
「朝からずっと」
「朝からずっと悪い人間に言われても」
「私はいつもこんな感じ」
澪はそう言って、光一の机へ小さく折った紙を置いた。開くと、短く二行だけ書いてある。
――資料室、鍵が変わってる。
――神代先生、昼休みに一人で管理棟へ。
光一は紙を畳み直した。
「どっちから行く」
「それを決めるのが今日の問題でしょ」
「嫌な言い方するな」
「事実だから」
澪は窓の外を見たまま言った。
「神代先生を放っておくと、噂はもっと集まる。資料室を放っておくと、また紙が消える」
「両方、って言えれば楽なんだけどな」
「二人しかいないから」
その一言が、妙に重かった。
昼休みの終わり、二人は別れた。
光一は管理棟へ向かい、澪は資料室へ行く。別れる直前、澪は小さく足を止めた。
「光一」
「ん?」
「今日は、遅れたって言い訳しないで」
光一は一瞬だけ返事に詰まり、それからうなずいた。
「分かった。遅れたら、遅れたって言う」
「うん」
それだけで澪は歩き出した。短いやり取りだったが、二人には十分だった。
管理棟の裏手は、昼でも少し暗い。古い配電盤室の前に、神代玲奈は一人で立っていた。扉の前で鍵を探すでもなく、ただ数秒、取っ手へ触れずにいる。
「先生」
光一が呼ぶと、神代は驚かなかった。
「来ると思った」
「それ、褒められてます?」
「いいえ。面倒だと思ってる」
そう言いながらも、神代は扉から半歩だけ離れた。
「ここに何があるんですか」
「古い点検記録。残っていたら困る人が、たぶん何人かいる」
「先生もその一人ですか」
少し意地の悪い訊き方だったと、言ってから気づいた。
神代は怒らなかった。ただ、目を伏せて答えた。
「そうかもしれないし、違うかもしれない」
「まだ決めない、って言えば楽ですよね」
「あなた、その言葉を自分で便利に使い始めてる」
刺さる言い方だった。
光一は黙る。神代はそこで初めて、ほんの少しだけ声を落とした。
「でも、今日は便利に使ってる場合じゃない。誰かが先に入ってる」
同じ頃、資料室では澪が空になった引き出しを見下ろしていた。
昨日まであった西棟改修後の簡易配線図が消えている。代わりに残されていたのは、半分だけ燃えた付箋だった。『もう遅い』。丸文字。女の子の字にも見えるし、意図的に崩しただけにも見える。
澪は付箋を指先で持ち上げた。軽い。焦げているのに、まだ紙の重さしかない。
遅い。誰に向けた言葉なのかを考える前に、廊下の向こうで足音がした。澪は振り返り、そこで水瀬凪と目が合った。
「……見たの」
凪はそれだけ言った。
「見た」
澪が答えると、凪は唇を噛んだ。
「私じゃない」
「今は、まだ決めない」
「その言い方、ずるい」
「知ってる」
澪は付箋を折りたたんでポケットへ入れた。
「でも、決めつけてほしいなら、それはもっとずるい」
凪は何も返せなかった。その沈黙の奥に、怯えとは別の焦りが見えた。誰かを庇っている時の顔だった。
次に音がしたのは、放課後だった。
体育館の裏にある旧器具庫。そこは西棟の裏手へ回る通路にも近い。火を見た、と叫んだのは一年の男子だった。今度は煙だけではない。薄い炎が、器具庫の脇のダンボールを舐めていた。
教師たちが走る。生徒が群がる。誰かがスマホを向ける。
最悪だ、と光一は思った。ここで大事なのは、火そのものより、誰がその場にいたことにされるかだ。
駆けつけた澪と目が合う。言葉はいらなかった。
「人」
澪が言った。
「紙」
光一が返した。
その一瞬で、二人はどちらを先に取るか決めた。
澪は人の輪の方へ走った。器具庫の陰に、しゃがみこんだ一年生の女子がいる。噂で名前を出され始めていた、神代のゼミ見学に出入りしていた子だった。顔色が真っ白で、手にライターを握っている。使ったのか、持たされたのか、それはまだ分からない。でも今は、その子を人の目から切り離す方が先だった。
光一は器具庫へ回り込み、半分開いた窓から中へ手を伸ばした。棚の上に、古い紙束がある。焦げている。西棟補修の見積り写し。今ここで全部燃えたら終わる。
腕を伸ばしながら、光一は思った。遅かったかもしれない。昨日の煙の時点で、もっと強く止めるべきだったのかもしれない。神代を、凪を、誰か一人でも。
でも、今それを考えても、火は待たない。
紙束を引き寄せた瞬間、窓の内側で何かが崩れた。火の粉が散る。光一は反射的に顔を背けたが、紙は掴んだまま離さなかった。
「光一!」
澪の声が飛ぶ。
振り向くと、澪は一年の女子を背中にかばいながら立っていた。周囲の視線を切るみたいに、半歩前へ出ている。
「そっちは」
「生きてる」
「それでいい」
光一はそう答えた。声が少し掠れていた。
結局、器具庫の火はすぐ消えた。大事にはならなかった。教師はそう言うだろう。実際、そうなのかもしれない。建物は残ったし、けが人もいない。
でも、残った紙束は半分以上が焼けていた。
読めるのは日付と、業者名の一部だけ。肝心の署名欄は黒く潰れている。
日が落ちたあと、二人は中庭のベンチに座っていた。
風が冷たい。沈黙も冷たい。けれど今は、その冷たさから逃げる気になれなかった。
「……遅かった」
先に言ったのは光一だった。
「分かってたのに、まだ持てるって思った」
澪は少しだけ俯いて、それから小さく首を振った。
「私も」
「でも、お前は人を取った」
「あなたもでしょ」
「紙を取った」
「でも、最初に『人』って返した」
短い言い合いだった。慰めにも責任逃れにもならない、ただの確認だった。
しばらくしてから、澪が言った。
「ねえ」
「ん?」
「今日、もしどっちか一つしか選べなかったとしても」
「うん」
「私は、あの子を先に出したと思う」
光一はすぐには答えなかった。焼け残った紙束の端が、まだ指先にざらついている気がした。
「僕もだ」
それが最善だったとは言えない。でも、少なくとも今の二人が選ぶ被害の最小化は、そこにあった。
その時、澪のスマホが震えた。
差出人不明の短いメッセージ。
――次は、火じゃない。
澪は画面を光一へ向けた。
光一はそれを見て、ゆっくり息を吐く。
「……もう待てないな」
それは「まだ決めない」を捨てる言葉ではなかった。
何をもう保留できないのかを、やっと二人で共有できた、という意味だった。




