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第3章 第8話 煙の先

 翌朝、廊下の空気は、目に見えないくせに少し焦げていた。


 誰かが本当に何かを燃やしたわけじゃない。少なくとも、この時点では。けれど、昨日の一件――立入禁止のはずの西棟側倉庫の前で見つかった焦げ跡と、そこへ残されていた模倣めいた脅し文の話は、もう朝のホームルーム前には半分以上が別の形へ変わって校内を回っていた。


 四つ目の事件。三年前の火災。次は誰だ。

 そういう言葉だけが、事実より先に歩いている。

「最悪だな」

 杉浦が机へ鞄を置きながら言った。

「今朝だけで三人から違う話聞いたぞ。ひとつは西棟で煙を見た、ひとつは誰かが鍵を持ち出した、あとひとつは神代先生が夜中に一人で歩いてたってやつ」

「最後だけ雑すぎるだろ」

 光一がそう返すと、杉浦は苦笑いした。

「雑でも広がるんだよ、こういうのは」

 その言い方は、からかいではなかった。


 光一は返事をしなかった。窓際の席から見える中庭は、昨日と同じ曇り空の下にあるのに、少しだけ色が悪く見えた。何かが起きたあとではなく、何かが起きる前の色だと、嫌でも分かってしまう。

 前だったら、ここで足が先に出ていたかもしれない。けれど今は、その一歩が遅れることの怖さも知っている。遅れれば、間に合わないことがある。早すぎれば、別の誰かを傷つける。

 どっちも知ってしまったあとで、選ぶのは前よりずっと難しい。

「光一」

 斜め後ろから、小さく声がした。

 振り向くと、澪が机に肘をつかずに立っていた。周りにはまだ何人かいて、話しかけるには微妙な距離だ。けれど澪は、そういう時ほど言葉を短くする。

「今朝、掲示板見た?」

「まだ」

「見た方がいい」

 それだけで、もう十分だった。


 職員室前の掲示板には、文化祭実行委員会からの連絡と、模試の会場変更、それに今週の図書当番表が並んでいた。その端に、一枚だけ不自然な紙が混じっている。コピー用紙を半分に切っただけの粗い紙だ。黒マジックで、雑にこう書かれていた。

『次は火だけじゃ済まない』

 紙の下には、誰かが慌てて剥がした跡がある。いったん貼られ、見つかり、だが完全には消されなかったのだろう。周囲にはすでに何人かの生徒がいて、教師が来る前にスマホで撮ろうとしている。

「消さない方がまずい」

 澪が言った。

「でも、消すだけだともう撮られてる」

「分かってる」

 光一は紙を見たまま言った。

「だから、剥がす。剥がしたあとで誰が見たかも押さえる」

 言い切った自分の声が、少しだけ昔と違って聞こえた。決めるべきところでは、決める。そういう線引きを、ようやく口にできるようになっていた。

「先生呼ぶ?」

「呼ぶ。でもその前に」

 光一は一歩前へ出る。周囲にいた二年の男子が、半ば面白がるように言った。

「どう思う、名探偵。これもまだ決めない?」

 声の調子は軽い。でも、その軽さの中に期待と不安が両方混ざっているのが分かった。

 光一はその男子を見た。からかわれているのに近い。けれど、試されてもいる。

「俺は……まだ決めない」

 そこで一度、間を置いた。


「でも、放ってはおかない」

 自分でも、少し意外なくらい自然に言えた。澪が横で小さく息を吐く。その息の意味が、今は分かる。安堵だけじゃない。そこで踏み出したことへの確認だ。

 掲示板の紙を外し、光一は折らずにそのままクリアファイルへ入れた。マジックの匂いはまだ新しい。インクが完全に乾いていない。書かれたのは今朝だ。少なくとも昨夜ではない。

「澪、写真撮ったやつの顔、覚えた?」

「二人。あと一人は見てないふりしてた」

「そっちの方が嫌だな」

「うん」


 教師が駆けつけてきた時には、もう周囲のざわめきは一段大きくなっていた。誰かが小さく「次って誰だよ」と言い、別の誰かが「やっぱ神代じゃない」と返す。それだけで十分だった。噂はもう、人を指さす形になり始めている。

 

 昼休み、神代玲奈は職員室の裏口近くで二人を待っていた。

「見たわ」

 挨拶もなく、そう言った。

「朝の紙。写真も回ってる」

「すみません」

 光一が言うと、神代は首を振った。

「謝る相手、違うでしょ」

 その声に怒気はなかった。ただ、少し疲れていた。


 神代はフェンス越しに中庭を見る。その横顔は、教師のものというより、昨日から眠れていない人の顔だった。

「今朝、一年の子に聞かれたの。『先生、三年前の火事の時に何か隠したんですか』って」

 短く笑う。

「質問としては正しいのよ。たぶんね。でも、正しい順番じゃない」

 その言葉に、光一は返事を失った。

 正しいことと、正しい順番は違う。まさに今、自分たちが抱えている問題そのものだった。


「神代先生」

 澪が静かに言う。

「今日、ひとりにならないでください」

「それ、私が狙われてるって前提?」

「まだ決めてません」

 澪はきっぱりと言った。

「でも、あなたの名前を出そうとしてる人はいます」

 神代は数秒、何も言わなかった。それから小さくうなずく。

「……そうね。じゃあ、今日は職員室を出る時、声をかける」

 教師が誰かに守られる側へ回ることに、ためらいがあるのは分かった。けれど、それを飲み込んで受け入れたのだとも分かった。


 その場を離れたあと、渡り廊下で澪がふと足を止めた。

「今朝の」

「何が」

「『でも、放ってはおかない』」

 光一は一瞬だけ黙る。

「変だったか」

「ううん。前よりいい」

「珍しく素直だな」

「今日はそういう日」

 そう言った澪の目は、少しだけ強かった。見守るだけじゃない。もう、一緒に選ぶ側に立っている人の目だった。

 

 午後の理科準備室で、小さな火が出た。

 火事と呼ぶほどではない。棚の下に積まれていた古いプリントの束が焦げ、近くのコンセントが焼け、煙が上がっただけだ。用務員が消火器で押さえた時には、炎はもうほとんど消えていた。

 でも、十分だった。


 誰かが「また火だ」と叫ぶ。誰かが「西棟の次は理科室だ」と言う。実際には理科準備室と西棟火災の間に何の証拠もないのに、言葉だけが先に橋を架ける。

「行くぞ」

 光一が言うより早く、澪は走っていた。


 現場は、まだ薬品の匂いと消火剤の粉が混ざって白く曇っていた。教師たちが生徒を下がらせている。その外側で、誰かが泣いている。理科委員の一年だ。

「見た?」

 光一がしゃがんで訊くと、一年は何度も首を振った。

「見て、ないです……でも、誰かいた、と思います。ドア、閉まる音がして……」

「顔は?」

「分かんない……」

 分からない。けれど、誰かがいた。その証言だけで、今の空気は十分に悪くなる。

 澪は床を見た。消火剤の白さの中に、うっすら靴跡がある。一つではない。騒ぎのあとで人が踏み込んだ跡も混ざって、もう判別が難しい。

「遅かった」

 小さくこぼれた言葉に、光一が顔を上げた。

「澪」

「分かってる。責めてない」

 澪はそう言ってから、自分で少しだけ眉を寄せた。

「でも、これがそういうことなんだよね」


 まだ決めないでいた間に、間に合わなくなることがある。

 その意味が、消火剤の匂いの中で嫌にはっきりした。

 光一は立ち上がる。胸の奥が熱い。怒りなのか、焦りなのか、自分でもまだ名前をつけられない。

「次を止める」

 その一言は、ほとんど独り言に近かった。

「うん」

 澪が言う。

「次を止める。そのために、今は決める」

 その声は静かだった。でも、はっきりしていた。


 夕方、理科準備室の棚の裏から、一枚の紙が見つかった。半分だけ焦げている。残った文字は短い。

『四つ目は、もう始まっている』

 それは脅しであり、宣言でもあった。

 誰かが噂をばらまき、誰かが証拠を消し、誰かがそれを模倣して火をつける。敵はひとりではない。だからこそ厄介で、だからこそ遅れが命取りになる。

 紙を見た瞬間、光一は昨日までより一段低い声で言った。

「澪」

「なに」

「次は、待たない方がいい」

「うん」

「でも、全部は決めない」

「うん」

 澪はもう、そこを言い直させなかった。

「止めるべきことだけ、先に止めよう」

 その言葉に、光一はうなずいた。


 最善ではないかもしれない。

 でも、被害をこれ以上大きくしないための選び方なら、まだ間に合うかもしれなかった。

 そしてその夜、神代玲奈の机の中から、三年前の会合名簿のコピーが一部だけ消えていた。

 火は小さく済んだ。けれど、次はもう小さく済まない。

 そう告げるように、校舎の窓の外で風が一度だけ強く鳴った。

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