第4章 第9話 直人のノート
間宮からの返事は、翌朝届いた。
『方法はあります。ただし、完璧ではありません。現場に必要な情報だけを渡す。個人名ではなく、当日の支援条件として渡す。紙ではなく、担当者間の確認で更新する。その運用が、今は崩れています。』
澪はその文を何度も読んだ。
運用が崩れている。
それは、誰か一人が悪いというより、誰かが少しずつ手を抜き、誰かが少しずつ遠慮し、誰かが少しずつ声を出さなかった結果のように思えた。
しかし、それだけではない。
対象外のメモを書いた人がいる。図書館の警告メモを天井に挟んだ人がいる。青葉の家の冬馬は、去年数えられなかった怒りで非常口に木片を挟んだ。
行為は点在している。だが、言葉は似ている。
対象外。
確認済み。
改善済み。
澪は直人のノートを借りた。
「え、返してくれるんですよね」
「もちろん。コピーさせて」
直人は不安そうにノートを差し出す。
そのノートは、澪が見落としたものばかりを集めていた。誰が何を言ったかだけではない。誰が言わなかったか。誰が視線をそらしたか。誰が手を止めたか。
澪はその中に、同じ名前が何度も出てくることに気づいた。
施設課の稲森。
会議でほとんど発言しなかった男。間宮が説明するときも、反論しなかった。成瀬が予算の話をしたとき、視線を伏せた。図書館の改修図面については「確認します」とだけ言った。
「稲森さん、静かすぎる」
澪が言うと、光一は頷いた。
「目立たないようにしてる人は、目立たない理由がある」
「疑ってる?」
「疑う準備をしてる」
澪は笑った。
「その言い方、ずるい」
「便利だろ」
直人が手を挙げる。
「稲森さんが事故を起こした、というより、事故が起きても困らない位置にいた人だと思います」
「どういう意味?」
「施設課は、危険が表に出れば改修予算を取りやすい。でも、支援対象者の情報は教育支援課が持っている。だから、誰がどこで困るかまでは知らない。でも、施設の不備が表に出ること自体は、利用できる」
澪は直人を見た。
「直人くん、すごいね」
「僕は、二人が大きな声で話している横で、地味に見ていただけです」
その言い方に、澪は少し笑った。
午後、三人は市役所へ向かった。間宮が短い面談の時間を取ってくれたのだ。
教育支援課の窓口は、思ったより普通だった。カウンター、番号札、パンフレット。そこにいる人たちは、誰かの人生を左右する資料を扱っているようには見えない。
間宮は会議室ではなく、庁舎一階の相談スペースを選んだ。
「ここなら、話している姿が見えても内容は聞こえません」
澪はその配慮に気づき、頭を下げた。
「先日は、本当にすみませんでした」
「もう受け取りました」
間宮は淡々と答えた。
「今日は質問を」
「はい。第三避難先の運用が崩れている原因です。誰が何を止めているんですか」
「止めている、というより、誰も最後まで持っていません」
「最後まで持つ?」
「学校は生徒を知っています。支援センターは事情を知っています。施設課は建物を知っています。教育支援課は制度を知っています。でも、その全部を一人で持つ人はいない。持つと個人情報が集まりすぎるからです」
光一が言う。
「だから分散している」
「はい。けれど、分散すると、境目で落ちます」
境目で落ちる。
図書館の照明。相談室の千秋。非常口の冬馬。
全部、境目で落ちていた。
澪は聞いた。
「稲森さんは?」
間宮の表情がわずかに変わった。
「施設課の稲森係長ですか」
「はい。施設の不備を改修予算に繋げる立場ですよね」
「そうです」
「事故が表に出れば、予算は取りやすくなりますか」
間宮はすぐには答えなかった。
「取りやすくなる場合もあります。ただし、事故が起きれば施設の信用は落ちます。利用者も減ります」
「でも、閉鎖して統合する理由にもなる」
澪は言った。
間宮が黙った。
その沈黙は、前の会議の沈黙とは違った。答えを探す沈黙ではなく、言っていい範囲を測る沈黙だった。
「市には、第三避難先を一つの新しい施設へ統合する案があります」
間宮は低い声で言った。
「まだ正式決定ではありません」
「新しい施設?」
「旧南部研修所を改修して、教育支援複合施設にする案です。そこへ図書館の学習席、支援センターの一部機能、青葉の家の校外活動代替機能を集約する」
澪の中で、三つの点が一本の線ではなく、一つの円になった。
既存施設が危険だと示されれば、新施設への統合が進む。
誰かが事故を利用している。
「稲森さんが進めているんですか」
「施設課としては、老朽施設を減らすのが方針です」
間宮は名前を避けた。
澪はそれを、以前なら即座に追及していただろう。だが、今は一拍置いた。
「間宮さんは、その統合に反対ですか」
「条件付きです。新施設が本当に安全で、通える子にとって使いやすいなら、反対する理由はありません。ただ、今ある場所を失う子もいます」
澪は千秋の顔を思い出した。
直人がノートに書く。
新施設。統合。失われる場所。
その夜、澪は光一に言った。
「犯人を探すより、場所を守る話になってきたね」
「最初から、そうだったのかもな」
「でも、誰かがメモを書いてる」
「そこは解く」
光一は静かに答えた。
「場所を守るためにも」
澪は頷いた。
澪は机の上の紙を一枚ずつ分けた。急いで重ねると、薄い資料ほどすぐに端がずれた。
直人のノートの余白に、澪は新しい欄を作った。
誰が悪いか。
その隣に、もう一つ。
誰が困るか。
直人のノートは、思っていたより細かかった。
澪の発言の横に、相手の反応が書かれている。声が少し硬くなった、視線が机に落ちた、光一が口を挟みかけてやめた。事件の記録というより、澪の周囲で起きた小さな揺れの記録だった。
「これ、わたしの観察日記じゃない」
澪が言うと、直人は真顔で頷いた。
「かなり近いです」
「認めないで」
「でも、必要だったと思います」
澪はページをめくる。第七話の面談のところで、文字が少し濃くなっていた。
篠宮さんは、相手の答えより先に、自分の質問を強くした。
その下に、直人自身の小さな字がある。
止めるのが遅れた。
澪は指を止めた。
「直人くんも、そう思ってたの」
「思っていました」
「なんで言わなかったの」
「言えませんでした」
直人は視線を落とした。
「僕は、篠宮さんを見ているつもりで、自分がどう見られるかを気にしていました」
澪はノートを閉じた。
責める言葉が出かけたが、飲み込む。直人が言えなかったことも、この事件の一部なのだと思った。
光一は窓際で、旧南部研修所の資料を見ている。
「直人」
光一が言った。
「お前のノート、貸してくれ」
「嫌です」
即答だった。
光一が少し驚いた顔をする。澪は思わず笑いそうになった。
直人はノートを胸に抱える。
「これは、僕が書いたものです。必要なところは見せます。でも、全部を渡すと、また誰かの資料になります」
その言葉で、教室の空気が変わった。
資料になる。
人の困りごとが、分類され、黒塗りされ、会議に出される。必要なことだ。けれど、全部を渡した瞬間に、誰かが持っていた温度は抜ける。
澪は直人に頭を下げた。
「必要なところだけ、写させてください」
直人は少し困った顔をしてから頷いた。
三人で、ノートの抜き書きを作った。事件に関係する証言、自分たちの判断ミス、各施設で聞いた言葉。直人は、写していい部分と伏せる部分を一つずつ決めていく。
その作業は遅かった。
だが、澪は急がなかった。
夕方、間宮から旧南部研修所の見学日程が送られてきた。施設課の稲森も同席するという。
「稲森さん、出てきたね」
澪が言うと、光一が頷いた。
「統合案を進めている側か」
「たぶん」
直人はノートの端に、新しい欄を作る。
統合で助かる人。
統合で困る人。
澪はその横に、もう一つ欄を足した。
統合を急がせたい人。
鉛筆の線が三つ並んだ。どれも同じ太さではない。だが、初めて三人分の手で引いた線だった。
旧南部研修所の見学前日、直人はノートを一冊買い足した。
表紙は無地の黒で、これまで使っていたものより少し薄い。澪が理由を聞くと、直人は「分けるためです」と答えた。
「事件用と、篠宮さん用?」
「違います」
直人は即座に否定した。
「公開できる記録と、できない記録です」
澪は少し黙った。
自分の発言が公開できない側に入っている可能性を考え、少しだけ嫌な気持ちになった。けれど、すぐにそれを口に出すのは違う気がした。
「基準は?」
「誰かが傷つくかどうか、だけでは足りません。誰かが自分の言葉を取り戻せなくなるかどうか」
直人は黒いノートを鞄にしまった。
「僕の言葉も、そこに入れます」
光一が横で言う。
「俺のも?」
「必要なら」
「怖い記録係だな」
「怖いくらいでちょうどいいです」
直人が真面目に返したので、光一は少しだけ笑った。
翌日の見学で使う質問表を作る時、澪は直人の基準を使った。公開できる質問。相手の言葉を奪う質問。答えなくてもよい質問。
質問は、前より少なくなった。
少なくなった分だけ、一つずつが重くなった。
澪は最後に、旧南部研修所の入口で確認する項目を書いた。
『ここへ来られない人の理由』
その一行を見て、直人が頷いた。
「それは公開できます」
澪は少しだけ胸を撫で下ろした。




