第3章 第5話 模倣の予告
その夜、僕と澪は西棟へ続く渡り廊下の手前まで行った。
行ったところで、すぐ何かが見つかるとは思っていなかった。けれど、図書室の窓の外で見えた影と、自転車置き場の針金と、赤いマーカーの数字が、全部ひとつの流れに見え始めていた以上、何もしないで朝を待つ方が嫌だった。
校舎は消灯後の病院みたいに静かだった。非常灯の色だけが廊下の角に薄く溜まり、足音を立てるのが妙に悪いことみたいに思えた。
西棟の手前には、立入禁止の札がぶら下がっている。昼間、ここを通る時にはただの警告にしか見えなかった札が、夜だと誰かの意思そのものみたいに見えた。
「ここ、昼と夜で違いすぎるだろ」
僕が小さく言うと、澪は隣で懐中電灯の角度を変えた。
「建物は同じ。見てる側が違うだけ」
「それ、慰めになってない」
「別に慰めてないし」
言いながら、澪は床の端へしゃがみ込んだ。立入禁止の札の下、金具の近くに白い粉が落ちている。チョークではない。もっと細かくて、乾いていた。
僕も横にしゃがみ、指先で触れる寸前でやめた。
「石膏?」
「かも。壁に擦った感じ」
「札を外そうとした?」
「外したかったのか、外したように見せたかったのか」
澪はそう言ってから、少しだけ間を置いた。
「でも、今夜は入ってない」
「断言できる?」
「鍵穴の擦れ方が昼のまま。いじってたら、もう少し金属粉が落ちる」
そこまで分かった時点で、ひとまず今夜の当たりは外れだった。
空振りだ、と口にするほど軽くはない。何も起きなかったわけじゃない。起きる前の手つきだけが残っていた。誰かはここへ来て、何かをしようとして、やめた。あるいは、やめさせられた。
「帰る?」
僕が訊くと、澪は札の裏をめくった。
裏面に、黒い油性ペンで短く一文だけ書いてある。
――また同じ順番で終わる
その文字を見た瞬間、背中がひやりとした。悪戯にしては単語の選び方が悪い。脅し文句にしては、誰かを怖がらせるための熱が足りない。もっと別の、知っている人間の書き方だった。
「順番、か」
僕が言うと、澪は札を戻した。
「三年前の会合メモと同じ言葉」
「誰が先に黙るか、誰が後から折れるか」
「うん」
夜の廊下でその単語を口にすると、紙の上で見ていた時よりずっと嫌だった。
事件のあとに決められたはずの順番が、今は事件の前から使われている。つまり、誰かは最初から“どう終わらせるか”を考えて動いている。
翌朝、学校は妙に平和だった。
少なくとも見かけの上では。
ホームルーム前の教室では、購買の焼きそばパンがどうとか、体育の持久走がだるいとか、そんな話が普通に飛んでいた。昨日の赤い落書きだって、壁はもうきれいに塗り直されている。教師たちの仕事としては正しい。正しいけれど、それで消えるのは文字だけで、空気は消えない。
「で、どう思う。名探偵」
いつものように杉浦が言った。けれど今日は、からかいの調子が半分もなかった。
僕は自分の机へ教科書を置いてから答えた。
「俺は……まだ決めない」
「でも昨日のやつ、放っとくの?」
「放っとかない。決めつけないだけ」
「その違い、最近ようやく分かってきた」
「遅いな」
「お前が遅かったからだろ」
そのやり取りを、澪は窓際の席から聞いていた。少し前なら、この会話はもっと棘があったはずだと思う。光一がむきになって、杉浦が面白がって、そこで空気が散る。
今は違う。光一は答えを出さないまま、止めるべきものがあることだけは共有できるようになっていた。
その変化を嬉しいと思う一方で、澪は別の不安も抱えていた。
“まだ決めない”は、便利な言葉だ。便利な言葉ほど、使い方を誤ると逃げ場になる。そこを見失わせないためにも、自分が隣で見ていなければいけないと、今は前よりはっきり思っていた。
昼休み、文化祭準備室の前で柏瀬直人が澪を呼び止めた。
「篠宮さん、ちょっといい?」
「なに」
「配線、見てほしい」
「私が?」
「雨宮でもいいんだけど、先に篠宮さんに見てほしい」
以前なら、その言い方だけで澪は少し身構えていたかもしれない。今は違う。直人の声色に、変な含みがないことが分かった。私情ではなく、今は本当にそれが必要なのだと。
準備室の中では、延長コードが三本、床の上で不自然に交差していた。文化祭用のスピーカーと、照明用の仮設電源と、古いプリンタ。どれも単体では問題ない。問題なのは、誰かが途中で一本だけ差し替えていることだった。
「これ、昨日の終わりに誰か触った?」
澪が訊くと、直人はすぐうなずいた。
「朝来たら順番が変わってた。たぶん悪戯だと思って戻しかけたんだけど、雨宮たちが追ってる話と似てる気がして」
「戻さなくて正解」
「やっぱり?」
「うん」
その返事をしてから、澪は少しだけ息を吐いた。
前なら、こういう場面で自分が先に判断していいのか迷っていた。光一を呼んで、答え合わせを待っていたかもしれない。今は違う。自分の目で危険だと分かったなら、その場で止めるべきだと分かる。
「直人、これ今日の間は誰にも触らせないで」
「分かった」
「先生には私から言う」
「篠宮さん」
「なに」
「その言い方、少し前より強いね」
「悪い?」
「いや。今の方が助かる」
直人はそう言って、少しだけ笑った。澪もそれに小さくうなずいた。気まずさは、もう前ほど残っていない。全部元通りではないけれど、それで十分だった。
放課後、僕と澪は準備室の配線を見た。
見た瞬間に分かった。これは火をつけるための細工ではない。もっと嫌な種類のものだった。ショートしやすい順番へ寄せている。すぐには燃えない。けれど何かの拍子で負荷が重なれば、一気にいく。
「悪趣味だな」
僕が言うと、澪は床へしゃがみ込んだまま答えた。
「本気で燃やす気なら、もっと直接やる」
「じゃあこれは」
「再現したいんじゃなくて、近づけたい」
「三年前に?」
「うん」
その言い方に、僕は少し黙った。
模倣犯、という言葉がようやく手触りを持った。ただの便乗じゃない。三年前の火災がどういう条件で起きたかを、断片的にでも知っている人間の動かし方だ。
「誰が触れる」
「準備委員、放送委員、先生、用務員」
「多いな」
「でも、“こうすると危ない”まで分かる人はそんなにいない」
澪はそう言ってから、一本の延長コードを持ち上げた。
「少なくとも、設備に触るのを怖がらない人」
そこでようやく、僕の頭の中で噂の流通経路と物理的な接触箇所が重なった。
紙を撒く人間と、配線をいじる人間が同じとは限らない。けれど、同じ話を知っている必要はある。つまり今の敵は、一人の犯人じゃなくて、知ってしまった複数の人間の動きかもしれない。
「最悪だ」
「うん」
「これ、止めるの面倒くさいタイプのやつだ」
「面倒くさいで済めばいいけど」
澪の声が少しだけ低くなる。
僕はその顔を見て、冗談を続けるのをやめた。
その日の帰り際、西棟手前の渡り廊下で、用務員の台車が止まっているのが見えた。床のワックス剥離剤を運んでいたらしい。澪が足を止め、台車の足元を見た。
銀色の缶の一つの底だけが、黒く煤けている。
「光一」
「うん」
「これ、昨日の夜にはなかった」
「どこでついた」
「分からない。でも校舎の中」
僕は缶の裏をのぞき込んだ。煤だけじゃない。床にも、ごく小さな焦げ跡が点々と続いている。線路みたいに細く、西棟の方へ向かっていた。
僕らはその跡を追った。
西棟へ続く防火扉の手前。壁の下部、配電盤の影になる位置で、跡は途切れていた。そこに、小さく焦げた紙片が落ちている。
拾い上げると、数字だけが読めた。
《E-17》 その記号には見覚えがあった。前の事件の時に消えた資料番号の書式だ。火災当日の設備記録に振られていた整理番号。その一部だけが、ここに残っている。
「……なんで今これが出る」
僕が言うと、澪は紙片を見たまま答えた。
「見せたいから」
「誰に」
「僕らに、じゃない」
澪は顔を上げた。
「見つけるべき人に」
その言い方に、僕は少しだけ息を止めた。
模倣は脅しじゃない。呼び出しだ。三年前の火災を知っている誰かへ、同じ匂いを再び嗅がせるための動き。そのために、噂も、紙も、配線も使われている。
「次は未遂で済まないかもな」
僕が言うと、澪はすぐには頷かなかった。
数秒だけ黙って、ようやく口を開く。
「うん。でも、まだ間に合う方を探す」
「それ、最善じゃなくても?」
「最善なんて、最初からないでしょ」
そう言った澪の顔は、冷たいというより、よく見えていた。
夕方の光が廊下の窓から細く差し込み、西棟の扉の前でそこで途切れていた。
焦げた紙片は軽いのに、指先へ残る感触だけが妙に重かった。
僕はその重さを確かめるみたいに握り直し、ゆっくり息を吐いた。
「分かった」
「なにが」
「ここからは、“まだ決めない”だけじゃ足りない」
「うん」
「でも、だからって急いで誰か一人にするのも違う」
「それも、うん」
短いやり取りだった。
でも、その短さの中に、今の僕らが持てる線引きが入っていた。
帰り支度の終わった校舎は、昼間よりずっと広く感じた。噂はもう教室だけのものじゃない。誰かの机でも、掲示板でも、配電盤でも起きている。三年前の火は消えたはずなのに、その周りにいた人間たちの手つきだけが、今になってもう一度動き出していた。
西棟の扉の向こうで、何かが小さく軋んだ気がした。
見間違いかもしれない。聞き間違いかもしれない。
でも、そうやって一度ごまかした音の先に、前の事件はあった。
僕と澪は同時にそちらを見た。
そして次の瞬間、校内放送のスピーカーが、唐突に短いノイズを吐いた。
誰も喋っていないはずの時間帯に、マイクが入ったみたいな音だった。二人とも動きを止める。
続くのは声か、それともまた別の何かか。
その一拍の沈黙が、やけに長かった。




