第3章 第6話 未遂のあと
止めた、と思ったのは、ほんの数時間だけだった。
放課後の見回りのあと、旧校舎脇の配電盤から外されていた細い導線は、職員室の金庫へ移された。西棟裏の倉庫から見つかったマッチ箱も、神代の手で回収された。少なくとも今夜は、誰かが三年前の火災をなぞるような真似はできない。そう思うには、十分な材料があるように見えた。
けれど、そう見えることと、実際に止められていることは違う。
その違いを、雨宮光一はもう知っていた。
「顔、悪いよ」
帰り支度の始まった教室で、篠宮澪が小さく言った。
「元からだろ」
「そういう意味じゃない」
机の横へ立った澪は、周囲に聞こえないくらいの声で続けた。
「一回止めたからって、終わった顔してない」
「してないよ」
「してる」
短い言葉だった。けれど、言い返せなかった。
光一は鞄へノートをしまいながら、窓の向こうを見た。校庭の端では、運動部がまだ声を張っている。日が長くなって、下校時刻の感覚だけが季節に置いていかれていた。こういう普通の放課後の中で、次の火種はたいてい見えにくい。
「今日のは、模倣の予告だった」
光一は言った。
「本番じゃない」
「うん」
「だから、次がある」
澪はすぐには返事をしなかった。机の上に開かれた数学のノートを閉じ、代わりに薄い茶封筒を差し出す。
「図書委員の返却箱に入ってた」
「僕宛て?」
「名前はない。でも、たぶんそう」
封筒の口は糊づけされていなかった。中にはコピー用紙が一枚だけ。『次は止められない』と、黒いボールペンで殴るように書かれている。丁寧に脅したいわけでも、誰かへ伝えたいわけでもない。見た相手の呼吸を止めることだけを狙った字だった。
光一は紙を折りたたまず、そのまま見た。
「どう思う、名探偵」
斜め前の席から、杉浦がいつもの調子で言った。だが、からかいの軽さは半分くらいしかない。最近の教室では、軽口にも様子見が混ざる。
光一は紙を机へ置き、少しだけ間を置いた。
「俺は……まだ決めない」
前なら、その一言で空気が少しざわついたはずだった。けれど今は違う。杉浦は肩をすくめるだけで、余計なことは言わなかった。クラスメイトたちも、面白がるより先に紙の文面を見てしまったらしい。
「でも」
光一は続けた。
「次に本当に火が出るなら、その前に止める」
その言い方に、澪が少しだけ目を上げた。
まだ決めないことと、今すぐ止めること。その線を、二人は少しずつ共有し始めていた。
夜になる前に、二人は神代玲奈のところへ向かった。
西棟の鍵はすでに回収されている。配電盤の封印もやり直した。職員側としては、これ以上できることは少ない。神代はそう言いたそうだったが、実際には言わなかった。
その代わり、職員室の隅で書類をそろえながら低く言った。
「脅し文句の紙が出たなら、相手は“止められた”ことを知ってる」
「内部の人間か、見える場所にいた人」
光一が返す。
「そう。少なくとも、完全に外から投げ込んだだけじゃない」
神代はそこで一度だけ二人を見た。
「ここから先は、あなたたちが首を突っ込みすぎると危ない。そう言うべきなんでしょうけど」
「でも、言わないんですね」
澪が言うと、神代は薄く笑った。
「言って止まる顔なら、今ここにいないでしょ」
机の上に並んでいたのは、巡回記録と鍵貸出票、それに防火扉点検の控えだった。西棟裏で見つかった導線に近い型番の部材は、過去一か月では校内に搬入されていない。なら、持ち込まれたものか、もっと前から隠されていたものか。
澪は鍵貸出票の端に目を留めた。
「玲奈先生、これ」
「なに」
「昨日の夜、資料倉庫の予備鍵だけ、返却時刻が書いてない」
神代の指が止まった。
鍵貸出票の三段目。確かに貸出時刻はあるのに、返却欄だけが空白になっている。名前は教員名。けれど、筆跡がどこかぎこちない。
「代筆」
光一が言う。
「書いた本人が、いつもこの欄を書いてない」
「分かる?」
「西棟の記録を消してたやつは、時間を書くときだけ数字の頭を少し浮かせる。これは逆に、最後を強く押してる」
神代はため息をつき、書類を閉じた。
「こういうの、本当に嫌になる」
「僕らもです」
「あなたたちは、まだ嫌になるだけで済んでる」
その言葉は、責める響きではなかった。むしろ、自分の側へ引き寄せるような声だった。
「私は、ここで嫌になっても明日も出勤しなきゃいけない」
光一は返事を飲み込んだ。こういう時、正しい慰めはだいたい薄い。
代わりに澪が口を開いた。
「だからこそ、一人で抱えないでください」
神代は一瞬だけ驚いたような顔をした。
それから苦く笑った。
「篠宮さんって、そういうこと言うのね」
「最近、少しだけ」
澪はそう言って、視線を逸らした。
少し前までなら、こんな言葉は出てこなかった。言えないまま抱えることが、誠実さだと思っていた時期が長かったからだ。
その日の帰り道、澪は珍しく自分から歩く速度を落とした。
昇降口を出ると、街は夕方の色へ沈みかけている。校門の外で別れた生徒たちの声が、風に混ざって薄く遠ざかっていった。
「光一」
「ん?」
「さっきの、“次に本当に火が出るなら、その前に止める”ってやつ」
「まずかった?」
「ううん」
澪は少しだけ考えてから言った。
「前のあなたなら、止めるって言う前に、誰がやるかを当てにいってた」
「……そうかも」
「今は先に被害の方を見てる」
光一は歩きながら、手の中のノートの角を指でなぞった。
「誰か一人を決めても、火は消えないから」
その返事を聞いて、澪は胸の奥が少しだけ痛んだ。
良い意味でも、悪い意味でも、光一はもう前には戻れない。自分が壊した部分も、救い直した部分も、そのまま今の彼の中にある。
「でも」
澪は言った。
「止めるって決めたなら、次はちゃんと早く言って」
「何を」
「一人で先に動く前に」
思わず光一が笑った。
「信用ないな」
「あるから言ってる」
「逆じゃない?」
「逆じゃない」
澪は足を止めた。
「あなたが一人で先に行くと、たぶん間に合うものまで間に合わなくなる」
その言葉は静かだった。けれど、かなり深いところまで刺さった。
合宿の夜のことを、光一も思い出していた。自分一人で判断していたら、たぶん見落としていたものがいくつもあった。
「分かった」
光一は言う。
「次は、ちゃんと言う」
「うん」
「お前も」
「何が」
「限界の方。抱え込んで黙る前に」
澪は一瞬だけ黙った。
それから、ごまかさずに小さく返した。
「努力する」
「努力か」
「いきなり完璧は無理」
「そうだな」
その会話のあと、少しだけ空気が軽くなった。
恋愛ではない。依存でもない。けれど、自分の欠点を前提にして、それでも並ぶことを選ぶ関係としては、たぶんこれ以上なく近かった。
夜九時過ぎ。澪のスマホが震えた。
直人からではなかった。無記名のメッセージアプリ。本文は一行だけ。
『四つ目はもう始まってる』
画像が一枚添付されている。
校内の暗い廊下。非常灯だけの緑っぽい光。その先に、半分だけ開いた防火扉。そして床に落ちた、小さな焦げ跡。
澪はすぐに光一へ転送した。
既読がつくのは早かった。
『今から行く』
その短い返事を見た瞬間、澪は指先が冷えるのを感じた。
まだ決めない。
そう言っていられる時間が、少しずつ減っている。
それでも、今ここで大きく騒げば、相手の思う通りになる気もした。
迷いはあった。
だが、その迷いを抱えたまま、澪は制服の上に薄手のパーカーを羽織った。玄関の鍵を静かに開ける。
外の空気は昼より冷たくて、夜の匂いがした。
次の事故は、もう始まりかけているのかもしれない。
そして、もしそうなら――今度は止めなければならなかった。




