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第3章 第4話 止めるべき夜

 翌朝、昇降口の白い壁に、赤いマーカーで大きく書かれていた。


 ――四つ目はまだ終わっていない。


 そこだけ見れば、ただの悪趣味な落書きだった。けれど、その下に小さく添えられた数字がまずかった。三年前の西棟火災の日付。その数字を知っている人間は、校内にそう多くない。


 登校してきた生徒たちは、最初は笑いながら立ち止まった。誰かの悪ふざけだ、文化祭前の目立ちたがりだ、そんな言葉が飛んだ。けれど、数字に気づいた瞬間、空気が変わった。笑いはすぐに消え、今度は小さな声が増えた。人は、意味の分からないものより、少しだけ意味が分かるものの方を怖がる。

 光一は人垣の後ろから、その変化を見ていた。前の自分なら、もう一歩前へ出て、誰より先に壁へ近づいていただろう。けれど今は違った。壁の前にいる生徒たちの肩の強ばりや、後ろへ下がる足の方が先に目に入った。


「どう思う、名探偵」

 後ろから杉浦の声が飛んだ。からかう調子は残っていたが、昨日までより薄い。半分は本気で、半分は昔の呼び方に頼っている声だった。

 光一は壁から目を離さずに答えた。

「俺は……まだ決めない」

 言葉は短かった。けれど、それで十分だった。少なくとも、今ここで誰か一人を犯人だと決めつけて騒ぎ始める空気は、一度そこで止まった。


 少し離れた窓際にいた澪は、その声を聞きながら、壁の右下へ目を向けていた。赤い線の端に、わずかに黒い汚れが混じっている。マーカーだけではなく、軍手か何かの繊維が擦れた跡だ。しかも字の高さが微妙に揃いすぎている。急いで書いた落書きではない。書く前に位置を測っている。

「これ、朝じゃない」

 澪が小さく言った。

 光一が振り向く。

「なんで」

「インク、乾ききってる。下の方だけ靴跡も薄く上から重なってる」

 そこまで聞いて、光一はようやく壁の前へ出た。教師が来る前に、今見るべきものだけを見ようと決めた顔だった。


 神代玲奈が昇降口へ現れたのは、その少しあとだった。彼女は赤い字を見るなり、足を止めた。声を荒げるより先に、周囲の生徒たちの顔を見た。誰が怯え、誰が面白がり、誰が自分の知らない話に置いていかれているのかを、一瞬で確認する目だった。

「離れなさい」

 静かな声だった。

 その静かさの方が効いた。生徒たちは少しずつ壁から離れたが、視線までは切れない。教師が一人呼ばれ、用務員が雑巾と洗剤を持ってくる。それでも誰も、その場を本当に去ろうとはしなかった。


 そこへ、一人の女子生徒が遅れてやって来た。二年の水谷沙希。保健委員で、普段は目立たない。だが昨日から、校内では彼女の名前がひそひそと出始めていた。三年前の火災当夜、学校に残っていた教員の姪だとか、古い鍵を持っていたらしいとか、根拠の薄い話ばかりが増えていた。

 水谷は壁を見た瞬間、顔色を失った。

「……私じゃない」

 誰もまだ何も言っていないのに、先にそう言った。

 その一言が、かえって周囲の耳を引いた。囁き声が一段低くなり、何人かが視線を交わす。ここで下手に否定すれば、否定そのものが材料になる。光一は、その流れが手に取るように分かった。

「杉浦」

「ん?」

「水谷を教室に連れてけ。今はここにいない方がいい」

「え、俺?」

「お前が一番、余計なこと言わずに動ける」

「それ、褒めてんのか?」

「今はな」

 杉浦は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに「分かった」と頷いた。そのまま水谷の方へ行き、わざと明るい調子で「ほら、朝から立ち止まってると遅刻するぞ」と声をかける。水谷は何か言い返しかけて、結局そのまま連れて行かれた。


 澪は、そのやり取りを見ながら小さく息をついた。今の光一は、答えを出す前に、まず被害が広がるのを止めようとする。それは良い変化だった。でも同時に、遅ければ意味がない変化でもある。


 昼休み、噂はもう壁の文字そのものではなく、水谷沙希の名前へ変わっていた。

「反応がおかしかった」

「先に私じゃないって言ったし」

「やっぱり何か知ってるんじゃないの」


 教室の後ろの方で囁かれるその言葉を、澪は聞こえないふりで聞いていた。聞こえていないことにしたところで、言葉は消えない。止めるなら、止めるタイミングを選ばなければならない。

 だが、その選び方が難しかった。

 ここで強く否定すれば、「庇っている」という別の噂が立つ。静観すれば、水谷の方が削れていく。

 光一だけにこの重さを負わせないと決めたのは自分だ。なら、ここで考えるのは自分の役目でもある。


 放課後、澪は保健室前の廊下で水谷を見つけた。彼女は委員会の提出物を抱えたまま、自販機の前で立ち尽くしていた。買うつもりなのに、どのボタンも押せない人の顔だった。

「水谷」

 声をかけると、水谷はびくりと肩を揺らした。

「……篠宮さん」

「少し歩ける?」

 問いかけると、水谷は迷ってから頷いた。二人で人気の少ない中庭側の通路へ回る。窓から差す夕方の光が長く、床へ帯のように伸びていた。


「私じゃない」

 水谷は、また最初にそれを言った。

「分かってる」

 澪は即答した。

 水谷は少しだけ目を見開く。疑われていないと先に言われるだけで、人は少し呼吸が戻るのだと、澪はその時知った。

「じゃあ、何を知ってるの」

 問い詰める口調にはしなかった。けれど、曖昧に逃がす気もなかった。

 水谷はしばらく黙っていたが、やがて小さく言った。

「おじさんが、三年前に学校へ来てたのは本当」

「火災の夜?」

「その前から、何回か。設備の確認って言ってた。私、詳しくは知らない。でも、家でその話になると、母がいつも嫌な顔してた」

 澪は続きを待った。

「昨日、うちのロッカーに紙が入ってたの。『黙ってた方が得だよ』って」

 その声は震えていた。壁の落書きより、そちらの方がよほど直接的だった。

「それ、まだある?」

「捨てた。怖くて」

 責める気にはなれなかった。捨てたこと自体が、彼女がもう追い詰められ始めている証拠だったからだ。


 そこへ、背後から足音が近づく。光一だった。けれど彼は二人の会話へすぐには入らず、少し距離を置いて立ち止まった。澪が先に口を開く。

「壁の件より前に、紙が入ってたって」

 短く共有すると、光一は表情だけで受け取った。

「水谷」

「……なに」

「今日、帰り一人になるな」

「でも」

「でもじゃない。ここは決める」

 はっきりした声だった。


 澪はその横顔を見て、胸の中で小さく頷いた。すぐに決めるべきことと、まだ決めないこと。その線を共有する。今、二人がやろうとしているのは、それだった。

 水谷は反論しかけて、できなかった。光一の言い方には、以前のような得意げな正しさがなかった。

 ただ、遅れたらまずいという切実さだけがあった。


 その日の帰り、二人は水谷を駅まで送った。表向きは偶然を装い、少し離れて歩く。何も起きないまま終われば、それがいちばんいい。そう思っていた。

 だが、校門を出る直前、後ろから金属の嫌な音がした。

 振り返ると、自転車置き場の端で一台が大きく倒れている。将棋倒しみたいに、隣の列まで巻き込んでいた。そのいちばん下に、水谷の自転車があった。前輪に細い針金が巻きつけられている。

「……っ」

 水谷が息を呑む。

 事故と呼ぶには不自然すぎた。けれど、誰かを直接傷つけるにはまだ足りない。その中途半端さが、いちばん悪質だった。次はもっと上手くやれる、と見せつけるやり方だった。

 光一はしゃがみ込み、針金を見た。すぐに解かない。先に、どう固定されていたかを見る。澪はその横で、水谷を立たせたままにしないよう肩へ手を添えた。

「これ、もういたずらじゃない」

 澪が言った。

 光一は立ち上がり、短く頷く。

「うん。だから次は待たない」

 その言葉は、水谷へ向けたものでもあり、自分たちへ向けたものでもあった。


 夜、二人は図書室で向かい合って座った。机の上には、壁の写真、針金、古い記録、澪が聞き取った水谷の証言メモ。全部を広げても、まだ一つの名前にはならない。けれど、ここで必要なのは名前ではなかった。

「水谷を先に守る」

 光一が言った。

「うん」

「証拠はその次でもいい」

 澪は、その言葉に少しだけ目を伏せた。以前なら、彼はきっと逆にした。先に証拠を押さえ、そこから犯人へ行っていたはずだった。

「光一」

「なに」

「それ、ちゃんと変わったね」

「褒めてる?」

「今日はそう」

 短いやり取りのあと、澪は机の上のメモを引き寄せた。

「ただ、守るだけじゃだめ。次を止めるには、誰がどこまで知ってるかを今夜のうちに絞る」

「分かってる」

「なら、ここはまだ決めない」

「うん」

 二人の声は低かった。でも、迷っている声ではなかった。


 被害を止めるために今すぐ決めることと、まだ材料が足りないから保留すること。その線を、一つずつ共有していく。そのやり方でしか、もう先へは進めないのだと、二人とも分かっていた。

 図書室を出る前、澪は窓の外を見た。校庭の端、自転車置き場の屋根の向こうに、誰かの影が一瞬だけ動いた気がした。見間違いかもしれない。けれど、そう言い切るには遅すぎた。


「光一」

「ん?」

「今夜、誰か動く」

 澪が言うと、光一はすぐには返事をしなかった。それから、静かに頷いた。

「だったら、先に行こう」

 今度は、それでよかった。だって次はもう、紙では済まない。

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