第3章 第3話 消える紙
小日向奏が「私だけじゃなかったのに」とこぼした翌日、学校の中から紙が減り始めた。
最初に気づいたのは、図書室の閉架書庫だった。
火災当日の新聞縮刷版を綴じたファイルの背に、昨日まであった赤い付箋がなくなっている。ページそのものが抜かれたわけではない。けれど、付箋が残していたはずの位置だけが妙にきれいで、誰かが一度そこへ手を入れたのだと分かった。
「これ、昨日はあったよな」
光一が言うと、澪は返事の代わりに管理簿を机へ広げた。閉架の鍵を借りた記録は増えていない。それなのに、ファイルには新しい指の脂が残っている。
「鍵を借りなくても、ここへ入れる人はいる」
「図書委員、司書、先生」
「あと、鍵を借りた人から受け取った人」
澪はそう言って、紙の端をそっと押さえた。昨日の違和感が、そのまま今朝の形になっている。噂は人を疑わせるだけじゃない。手を動かさせる。昨日までは眺めていただけの人まで、今日になると何かを隠し始める。
閉架を出たところで、今度は新聞部の資料室から及川真奈美が顔を出した。
「そっちも?」
「そっち“も”ってことは、やっぱりか」
光一が訊き返すと、及川はうんざりしたように肩をすくめた。
「火災の記事候補を貼ってた台紙、今朝見たら二枚なくなってた。完成版じゃなくて、赤字の入った方」
「いつの間に」
「分かれば苦労しない」
彼女はそう言ったあとで、少しだけ声を落とした。
「たぶん一人じゃない。抜き方が違う。きれいに外したのと、角から乱暴に引っ張ったのがある」
その言い方に、光一はすぐ意味を取った。
一つの場所を一人が消して回っているんじゃない。別々の人間が、別々の理由で、別々の紙を触っている。
昼休み。二人は事務室の前で立ち止まった。
普段なら雑談の漏れてくる時間帯なのに、今日は妙に静かだった。中では小日向奏が机に向かったまま、書類の束を何度も数え直している。数え終わるたび、また最初からやり直す。焦っている人間の手つきだった。
光一が声をかけるより先に、澪が小日向の机の端を見た。角を丸めて綴じていたはずのコピーが、そこだけ不自然に減っている。
「……小日向さん」
澪が呼ぶと、小日向は肩を大きく揺らした。
「な、なに」
「昨日あった火災関係の控え、何枚か抜きましたよね」
問い詰める口調ではなかった。確認する声だった。けれど小日向はそれだけで顔色を失った。
「違う、私、全部じゃない」
「全部じゃない?」
光一が反応すると、小日向は口を押さえ、しまったという顔をした。
事務室の奥でコピー機が動く音がする。誰かが近くへ来る気配はない。けれど長く話せる場所でもない。小日向は周囲を見回してから、小さく言った。
「放課後。ここじゃなくて、倉庫前で」
「逃げません?」
「逃げたいのは、ずっと前から」
その言葉だけ残して、小日向は帳票の束へ視線を落とした。話は終わり、という合図だった。
教室へ戻る廊下で、光一は少しだけ唇を噛んだ。
「昨日のうちに押さえるべきだった」
独り言みたいに出た声に、澪は歩幅を緩めた。
「昨日の時点で、全部は見えてなかった」
「でも、待った」
「待ったのは一人じゃない」
澪はまっすぐ前を見たまま言った。
「私も、あなたも」
責める調子ではなかった。それがかえって胸に残った。
五時間目の終わり、文化委員の柏瀬直人が澪を呼び止めた。
「篠宮さん、放送原稿の提出順、ちょっと見てくれない?」
「今?」
「今じゃないとまずい。先生がもう回収始めてる」
仕事の話だった。澪はうなずき、階段脇の掲示板へ向かう。直人は以前みたいに変に近づきすぎなかった。そこが逆に、気を遣わせてしまったのだと分かる。
原稿の順番はすぐ直せた。けれど直人は書類を受け取ったあと、少し迷ってから言った。
「最近、篠宮さん、前より忙しそうだね」
「そうでもない」
「そう?」
直人は笑わなかった。
「無理してないならいい」
たったそれだけの言葉なのに、澪は返事に詰まった。自分の状態を訊かれた時、光一なら適当に流せる。たぶん、流しても伝わるからだ。でも直人には、それでは足りない。足りないのに、足りる言葉がすぐに出てこない。
「……大丈夫」
ようやくそう言うと、直人は小さくうなずいた。
「ならいい」
それで会話は終わった。短かったのに、澪の中には妙に長く残った。
放課後。倉庫前で待っていた小日向は、昨日よりさらに疲れた顔をしていた。
「私が抜いたのは、再点検の立会名簿だけ」
最初からそう言った。
「でも、今朝なくなってたのはそれだけじゃなかった」
「どうして抜いた」
光一が訊くと、小日向はすぐには答えず、倉庫の壁へ背中を預けた。
「名前が残ってたから。三年前、そこに私の名前があった。事務補助ってだけで、ただ運んだだけなのに」
「だから消した」
「消したかった」
小日向は首を振る。
「でも、私が行った時には、もう別の紙もなくなってた。新聞部の赤字とか、配線図の写しとか。私だけじゃなかった」
光一は息を吐いた。
昨日の「私だけじゃなかったのに」は、責任の分散を訴える言葉だと思っていた。違った。もう一つあったのだ。消しているのは自分だけじゃない、という意味が。
「誰を見た?」
澪が訊く。
「見てない。けど、机の上の並びが変わってた。あれ、触った人の癖が違うとすぐ分かるから」
小日向はそこだけ、少し事務の人間らしい口調になった。
「先生の触り方と、外の人の触り方と、生徒の触り方、ぜんぶ違う」
「生徒?」
「配線図の控え、角だけ折れてた。あれ、焦った子が鞄に突っ込む時の折れ方」
そこまで聞いて、ようやく光一は今回の厄介さを正確に掴んだ。
敵が一人じゃない。
誰かが大きく隠しているのではなく、あちこちで小さく隠している。その全部が重なって、結果として真相に近い紙から順に消えていく。
「全部追いかけたら、間に合わないな」
光一が言うと、澪はすぐにうなずいた。
「だから、消えた紙じゃなくて、今夜消される紙を先に押さえる」
「候補は」
「立会名簿の原本。会合の仮議事メモ。配線図の元帳」
「場所は?」
「職員室保管庫、新聞部、設備管理室」
言いながら澪は順番を組み始めていた。こういう時の彼女は早い。すぐに全部を守ろうとはしない。守れない前提で、何を先に失わせないかを決める。
光一はそれを見て、ほんの少しだけ苦く笑った。
「“まだ決めない”の反対って、こういうことか」
「反対じゃない」
澪は即座に言った。
「名前を決めないことと、紙を押さえることは別」
その一言で、頭の中の霧が少し晴れた。
誰が犯人かはまだ決めない。でも、消えたら終わるものは先に押さえる。それは矛盾じゃない。
その夜。二人は神代玲奈にも協力を仰いだ。
神代は職員室の保管庫の鍵を前にして、しばらく黙っていた。
「先生」
光一が呼ぶ。
「これを開ける理由、今はまだ言葉にしきれません。でも、なくなったあとじゃ遅い」
神代は二人の顔を見比べ、それから短く言った。
「五分だけ」
鍵が回る音が、思ったより重かった。
保管庫の一番下の引き出しから出てきたのは、三年前の会合メモの下書き束だった。正式議事録ではなく、手書きの断片。そこには決定事項より、途中で交わされた言葉の走り書きが残っている。
――順番を決める
――最初に認めるのは誰か
――学校は後
――生徒名は出すな
「真相じゃない」
澪がつぶやいた。
「決めたのは、真相じゃなくて順番」
光一も続ける。
誰がどこまで認めるか。誰が先に折れるか。誰を最後まで表へ出さないか。三年前に行われたのは、事故の検証ではなかった。責任の並べ替えだった。
束を戻そうとした時、一枚だけ欄外に書き込みのある紙が混ざっていた。
会合出席者の一覧。その末尾に、ボールペンで追記された小さな文字。
《S・K》
「先生、これ」
光一が差し出すと、神代はそれを見て目を細めた。
「……見覚えがないわけじゃない」
「誰ですか」
「まだ決めない方がいい」
神代はそう言ってから、言葉を継ぎ足した。
「でも、このイニシャルが教師でも業者でもないことだけは言える」
教師でも業者でもない。
なら、生徒か。あるいは、当時学校に出入りしていた別の誰かか。
保管庫を閉め、廊下へ出ると、校舎はもうほとんど暗かった。
歩きながら、光一はポケットの中のメモを指で確かめる。紙一枚で、今夜いくつかのものは守れた。けれど同時に、守り切れなかったものもあるのだと思った。新聞部の赤字は戻らない。配線図の写しも全部は残っていない。
「なあ、澪」
「なに」
「これ、たぶん今後も同じことになる」
「うん」
「全部は間に合わない」
「うん」
澪はそれでも歩幅を変えなかった。
「だから二人で決めるしかない」
「何を」
「何を先に失わせないか」
その答えはきれいじゃなかった。けれど、きれいじゃないことの方が、今は本物に思えた。
昇降口を出る直前、光一のスマホが震えた。
知らない番号から、画像が一枚だけ送られてくる。
三年前の校門前。
会合の出席者らしい大人たちの背後に、少し離れて立つ学生服の影。
顔は見えない。
でも胸元の校章だけが、今の学校のものではなかった。
画像の下に、短い文が添えられていた。
《次は紙じゃ済まない》




