第3章 第2話 標的の名前
翌朝、教室へ入った瞬間に分かった。昨日までのざわめきは、まだ輪郭を持っていなかった。
誰が言い出したのかも分からないし、どこまで本気で受け取ればいいのかも曖昧だった。でも、その朝の空気は違った。人は、名前が出た瞬間に急に現実味を帯びる。
「やっぱり、小日向さんなんじゃない?」
前の方の席で、誰かがそう言った。ひそひそ声のつもりだったのだろう。でも、教室くらいの広さだと、その手の声はだいたい届く。届くように言っている場合も多い。
「だって、あの人ずっと事務室にいたんでしょ」
「三年前の資料にも触れられるし」
「火災のあとも書類まとめたって聞いた」
言葉が、少しずつ形を持ち始める。誰かが最初に石を投げて、あとは皆でその形を丸く整えていくみたいに。
僕は鞄を置きながら、教室の後ろの窓を見るふりをした。外は曇っていた。昨日と似た空だと思った。
こういう天気の日は、噂がよく広がる。根拠はない。ただ、何度かそういう日を見てきただけだ。
「光一」
声は低かった。振り向くと、澪がすでに僕の机の横に立っていた。
「聞いた?」
「聞こえるように言ってるな」
「うん」
「早いな」
「たぶん、朝の時点で誰かが回してる」
澪はそこで言葉を切って、教室の入口の方を見た。つられてそちらを見る。
小日向奏は、職員室で使う書類箱を抱えたまま廊下を歩いていた。事務補助員だから、教室へ入ってくることはない。ただ、二年の教室並びにある配布棚へ資料を届けることはある。年齢は僕らより少し上だ。大学生にも見えるし、卒業したばかりの先輩にも見える。学校の中にいるのに、完全には学校の側の人間に見えない。その半端さが、きっと今はよくない。
小日向は廊下を歩きながら、一度だけ教室の中を見た。たぶん、こちらの視線にも気づいた。けれど何も言わず、そのまま先へ行った。
その横顔は、昨日までと同じには見えなかった。
「怯えてる」
澪が言った。
「同感」
「でも、怯えてるだけじゃない」
「罪悪感もある、か」
「たぶん」
その言い方が、妙に重かった。
以前の僕なら、そこで「じゃあ何か知ってる」と早く決めていたかもしれない。
今は少し違う。怯えと罪悪感が同じ顔に乗ることを、僕はもう知っている。
悪いことをした人間だけが罪悪感を持つわけじゃない。言えなかった人間、止められなかった人間、黙ったままそこにいただけの人間も、同じ顔をする。
「先に話しかける?」
澪が訊いた。
「いや、今はだめだ」
「うん」
即答ではなかったけれど、迷いが長すぎもしなかった。
ここで追い詰めるのは違う。違うのだが、そうやっているあいだにも、教室の空気は勝手に進む。
一時間目の休み時間には、もう話が一つ増えていた。
小日向は火災の夜、西棟の外で誰かと口論していたらしい、というやつだ。もちろん出所は不明だし、誰が見たのかも曖昧だ。
たいてい、そういう噂ほど強い。
僕は席を立った。
「どこ行くの」
澪が言う。
「出所を探す」
「小日向さんじゃなくて?」
「そこを先にすると、たぶん遅い」
僕がそう言うと、澪は少しだけ目を細めた。反対ではない顔だった。
「じゃあ、私は今朝の紙の流れ見る」
「頼む」
「うん」
その一言で十分だった。昔より、こういう分かれ方が自然になったと思う。
最初に当たったのは杉浦だった。あいつはこういう時、軽い顔をしていても意外と耳が早い。
「小日向さんの話、誰から聞いた?」
僕が訊くと、杉浦はパンを咥えたまま肩をすくめた。
「俺は二年一組のやつから」
「誰」
「そこまで覚えてないよ。ていうか、朝にはもう皆知ってたし」
「便利だな、その“皆”ってやつ」
「何怒ってんだよ」
「怒ってない」
「怒ってる顔だぞ、それ」
言われて、自分でも少し口元が固くなっているのが分かった。噂の腹立たしさは、内容そのものより、誰も最初の一人でいたがらないところにある。
次に二年一組へ行くと、今度は「二年四組の女子が言ってた」という。二年四組では「朝、事務室の前で聞いた」。事務室の前では「三年の先輩が前にそんなことを言ってた気がする」。輪の外周だけが増えて、中心はずっと曖昧なままだった。
教室へ戻る途中、職員室前で澪と合流した。
「そっち」
僕が言うと、澪は短く報告する。
「朝いちで配布されたプリントの束、二年三組の分だけ順番が一枚違った」
「違った?」
「進路調査の下に、事務室からのお知らせが挟まってた。普通は一番上」
「その紙を取る時に、小日向さんの名前が見える」
「たぶん、それを起点にしてる」
なるほど、と思う。偶然の混乱に、意図的な一押しが乗っている。そういうやり方だった。
そこへ、当の小日向が職員室から出てきた。今度は手ぶらだった。僕らを見ると、一瞬だけ足が止まる。その止まり方で分かる。逃げるか、話すか、その両方を同時に考えた人の動きだ。
「……何か用?」
小日向が言った。
澪はすぐには前へ出なかった。僕も言葉を選んだ。
「少しだけ」
「今じゃないとだめ?」
「本当は、だめじゃない方がいい」
その言い方が意外だったのか、小日向は少しだけ眉を寄せた。
「でも、待ってる間にもっとひどくなるかもしれない、とは思ってます」
正直に言うと、小日向は目を逸らした。廊下の向こう、窓際の消火器を見たみたいに。
「……五分だけなら」
場所は空き教室だった。誰もいない二階の端。掃除用具入れの匂いが少しする部屋だ。
小日向は椅子へ座らず、窓の前に立ったままだった。逃げ道を背中に置いている。
「私が何か知ってるって、もう広まってる?」
「広まってます」
僕は答えた。
「でも、何を知ってることになってるのかは、たぶん皆ばらばらです」
「それ、最悪ね」
「同感です」
小日向は乾いた笑い方をした。でも、すぐに消えた。
「三年前、私はまだ正式な職員じゃなかった。ただの事務補助。言われた紙を運んで、言われた通りに印を押して、箱を閉じてただけ」
「火災の夜も?」
澪が訊く。
「……うん」
短い沈黙が落ちた。
「見たんですか」
僕が訊くと、小日向は首を横に振った。
「ちゃんとは見てない。でも、見てないって言い切れないくらいには近くにいた」
「誰がいたか」
「そこが、一番嫌なの」
小日向はそこでようやく僕らを見た。責めている目ではない。責められる前にもう疲れている人の目だった。
「名前を出したら、その人が終わるかもしれない。出さなかったら、今度は私が“知ってるくせに黙ってる人”になる」
その言葉に、僕はすぐ返せなかった。
正しい。どちらも正しいし、どちらも少しずつ間違っている。
澪が先に口を開いた。
「今、机に置いてあるもの、減ってますよね」
小日向の肩が揺れた。
「……何のこと」
「火災のあとにまとめたコピー」
「見たの?」
「机は見てません。ただ、事務室の棚の厚みが朝と違った」
そこまで見てるのか、と僕は思ったが口には出さない。今はそれどころじゃない。
小日向はしばらく黙っていた。窓の外では、体育の授業の笛が鳴っていた。平和な音だと思った。こういう時ほど、平和な音は少し嫌になる。
「消したわけじゃない」
小日向が言った。
「隠しただけ」
「どこに」
「言えない」
「どうして」
「私だけじゃなかったのに」
その一言だけが、妙にはっきりしていた。
僕は息を止めた。澪も動かなかった。
「……私だけじゃなかった」
小日向はもう一度言った。
「紙を運んだのも、名前を見たのも、あとで何も言わなかったのも」
そこまで言って、小日向は口を閉じた。もう先は出ないと分かる閉じ方だった。
その時、廊下の方で足音がした。誰かがこの教室の前で一瞬だけ止まり、すぐに去っていく。偶然にしては、少しだけ長い間だった。
僕はドアを見る。追うか、一瞬だけ迷う。
でも、追えば今ここにいる小日向を一人にする。そういう選択が、前よりずっと重い。
「光一」
澪が低く呼んだ。
分かってる、という意味で僕は小さくうなずいた。
足音は、もう遠ざかっていた。
小日向は僕らのやり取りを見て、少しだけ自嘲気味に笑った。
「ほら。こういうの、もう始まってる」
「誰かに見られてるって意味ですか」
「ううん。もっと悪い方」
「悪い方?」
「誰も、自分が最初の一人だと思ってない」
それは噂の広がり方そのものだった。
小日向は壁際の机へ近づき、引き出しから薄いクリアファイルを取り出した。中には数枚のコピーが入っていた。焦げたような茶色い縁がついた紙もある。火災当日のチェック表だろう。
「全部は渡せない」
小日向が言う。
「でも、これだけ」
差し出された束を、僕はすぐには取らなかった。
「持ってると危ないですよ」
「分かってる」
「じゃあ」
「だから、渡すの」
小日向は少しだけ苛立ったみたいに言った。
「もう、私一人で持ってるの嫌だから」
その言い方が、妙に切実だった。
僕はようやくファイルを受け取った。軽い。紙なんて、持ち主の事情に比べれば本当に軽い。
澪がその中をのぞき込み、すぐに一枚を抜いた。再点検立会者のリスト。氏名欄の一部だけが、きれいに切り取られている。
「これ」
澪が言う。
「最初からこうでした?」
「朝まではあった」
小日向が答えた。
「昼前に見た時、なくなってた」
僕はファイルを持つ手に少し力が入るのを感じた。
待っている間に、もう抜かれている。
噂が人を追い詰めるだけじゃない。追い詰められた人が守ろうとしていたものまで、別の誰かが先に持っていく。
それは、かなりまずかった。
「これ、今すぐ写します」
僕が言うと、小日向は疲れた顔のままうなずいた。
「好きにして」
「でも、名前はまだ出しません」
「……どうして」
「今出したら、次に消えるのが人になるかもしれないから」
自分で言ってから、その言葉の重さに少しだけ息が詰まった。前の僕なら、こんな言い方はしなかったと思う。
小日向は僕を見て、何も言わなかった。ただ、少しだけ目を伏せた。
教室へ戻る前、澪が廊下で言った。
「遅かったかもしれない」
「うん」
「でも、間に合ってないと決めるのはまだ早い」
「それも、まだ決めない?」
「そこは、たぶん違う」
澪は階段の手すりへ指先を置いたまま言う。
「急ぐことと、決めつけることは別でしょ」
その言い方が、妙に腑に落ちた。
僕は小日向から受け取ったファイルを抱え直す。中の紙は薄いのに、さっきより重く感じる。
昇降口まで来た時、掲示板の隅にまた新しい紙が貼られているのが見えた。今度は一行じゃない。二行あった。
――四人目をかばった人間から消えていく
――次は、隠しきれない
僕は立ち止まった。
隣で澪が、短く息を呑む。
噂はもう、空気じゃなかった。
形を持って、順番に人を狙い始めていた。




