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第3章 第1話 四つ目の事件

 朝の教室は、だいたい二種類の音でできている。


 ひとつは、机を引く音や椅子の脚が床を擦る音みたいな、誰が出しても似たように聞こえる音。もうひとつは、固有名詞の音だ。

 昨日の試合、今朝の小テスト、担任の機嫌、購買の新しいパン。

 人は登校してしばらくのあいだ、どうでもいい話を大量に交わすことで、自分がちゃんと学校の中に戻ってきたのだと確認している。


 その朝、二年三組の教室に流れていた固有名詞は、ひとつだけ妙に重かった。

「四つ目って、何のことだと思う?」

 窓際の方で誰かがそう言って、すぐに別の誰かが笑った。

「知らねえよ。怖い言い方すんなって」

「でも見ただろ。昇降口の掲示板」

「見た見た。あれ、誰が貼ったんだよ」


 教室に入る前から、僕もその紙を見ていた。

 昇降口の連絡掲示板。文化祭実行委員募集の紙や、部活の試合結果や、失くし物の一覧が貼られている、ごく普通の板の真ん中に、コピー用紙が一枚だけ混じっていた。

 黒い文字で、ただ一行。


 ――四つ目の事件は、まだ終わっていない。


 大げさと言えば大げさだ。いかにも噂を煽るためだけに書かれた文面で、真面目に受け取らなければただの悪戯でも済ませられる。けれど、その軽さの中に、無視しにくい単語が混ざっていた。


 四つ目。

 この学校で、ここしばらくのあいだ僕たちが追ってきたものを知っている人間なら、その数え方に引っかかる。

 旧校舎の事故。西棟の火災。旧校舎にいた三人目。学校の外へ伸びる線からさらに、誰かが勝手に「四つ目」を置いた。


「光一」

 自分の席へ鞄を置いたところで、後ろから低い声がした。

 振り向くと、篠宮澪が机の横に立っていた。いつも通りの無表情に近い顔をしているくせに、目だけは少し鋭い。ああいう時の澪は、だいたい僕と同じものを見ている。

「見た?」

「見た」

「どう思う」


 以前の僕なら、その問いに対してもっと早く答えていたと思う。あれは誰かを釣るための紙だとか、内部事情を知ってるやつの書き方だとか、そういうふうに。


 今は少しだけ違う。

 言葉にする前に、誰が困るかを先に考える癖がついた。

 僕は席へ座りながら答えた。

「今の時点で言えるのは、面白半分で済ませるには単語の選び方が悪い、ってことくらいだな」

「同感」

「あと、あれを見て一番嫌な顔をするやつがいる」

「うん」

 澪の返事は短かったが、それで十分だった。僕らは同時に、教室の中央やや後ろの席を見た。


 柚木遥斗は、登校してからずっとスマホを伏せたまま机に置いていた。普段なら最初に誰かの輪に混ざるタイプなのに、その朝は誰とも目を合わせていない。兄の名前がようやく記録の端から浮かび上がったあとも、彼は必要以上のことを喋らなかった。

 喋れなかった、の方が正しいのかもしれない。

 その柚木が、今は明らかに周囲の声を拾っていた。

 僕は立ち上がるべきか少し迷った。ここで近づけば、かえって周囲の視線を集めるかもしれない。けれど放っておけば、噂の方が先に本人へ届く。


 その半歩手前の迷いを、澪が見抜いたみたいに言った。

「今のは、待たなくていいと思う」

「……珍しいな」

「あなたが驚くこと?」

 そう返されて、僕は少しだけ笑った。

 以前の僕らなら、こういう判断はもっと曖昧だったかもしれない。僕が前へ出て、澪がそれを見ている。あるいは澪が止めて、僕がむきになる。

 今は違う。すぐ決めるべきことと、まだ決めないことを、二人で分けるようになった。


 僕は柚木の席へ向かった。

「遥斗」

 声をかけると、彼は一瞬だけびくりとした。

「……何」

「朝からひどい顔だな」

「お前にだけは言われたくない」

 返しは普通だった。少しだけ安心する。完全に沈んでいる時の人間は、言い返す余裕すらない。

「掲示板、見た?」

「見たよ」

「じゃあ、今から昇降口の前で誰か殴りに行くつもりか?」

「そんなわけないだろ」

 苛立ちはある。けれど、その苛立ちをどこへ向けるかまでは決めていない声だった。


 そこへ、ちょうど杉浦が前の席から振り返った。

「で、どう思う。名探偵」

 軽い調子だった。悪気はない。昔の僕を知っているからこその、いつものからかいだ。教室の何人かが、半分笑いながらこっちを見る。

 その視線の集まり方を感じた瞬間、僕は少しだけ息を吐いた。

 前の僕なら、こういう空気を嫌っていなかった。むしろ、そこへ答えを投げ込む瞬間が好きだった。


 けれど今は、答えを出すことそのものより、答えが何を起こすかの方が先に見える。

 僕は杉浦の方を向いて言った。

「俺は……まだ決めない」


 教室の空気が、ほんの一瞬だけ静かになった。

 杉浦はきょとんとしてから、苦笑いを浮かべる。

「前より言い方が重いんだよな、それ」

「便利な言葉じゃないからな」

「じゃあ、どうすんの」

「まず、勝手に人数を増やしたやつの意図を見る」

 そこで会話を切って、僕は窓の外に視線を逃がした。からかいはそこで終わったが、完全には消えない。ざわめきは、人の頭の中で続く。


 一時間目が始まる直前、担任が教室へ入ってきた。日直の号令より先に、教卓の上へ一枚の紙を置く。

「朝の掲示物の件だが、学校として確認中だ。根拠のない噂話を広げるな」

 正しい。正しいのだが、その言い方はだいたい遅い。噂は否定された時に止まるのではなく、否定されたこと自体を燃料にして広がることがある。


 案の定、担任が出ていったあとで教室の隅から小さな声が漏れた。

「確認中ってことは、何かあるんじゃん」

「やめなよ」

「でも四つ目って、数えてるやつがいるってことだろ」

 澪がノートを開いたまま、目線だけで僕へ合図した。行く? という意味ではない。

 聞いてる、というだけの合図だった。

 僕はうなずかずに、前だけ見た。

 すぐ動くべきことと、まだ決めないこと。その境目は、いつもきれいには引けない。だからこそ、共有しておくしかない。


 昼休み、僕と澪は昇降口へ降りた。問題の紙はすでに剥がされていたが、透明テープの痕は残っていた。端が少し浮いている。急いで剥がした時の雑な手つきだ。

「コピー用紙、学校の備品だな」

 僕が言うと、澪は剥がし跡を指先でなぞった。

「紙そのものはね。でも文字は家庭用の安いインクじゃない。トナー」

「職員室か、図書室か、印刷室」

「生徒会室も」

「候補が多いな」

「多い方が、すぐ一人に決めなくて済む」

 それは慰めではなく、事実としての言い方だった。僕はその言葉に少しだけ救われる。


 昇降口の脇には、火災訓練の写真を入れたガラスケースがある。去年の防災週間に撮った集合写真と、その横に、三年前の西棟火災後の安全対策についてまとめた古い掲示が並んでいた。

 澪が、そのケースの前で急に足を止めた。

「光一」

「ん?」

「これ、昨日と並びが違う」

 見れば、古い掲示の一番下にあったはずの写真が一枚なくなっていた。画鋲だけが残っている。写真の跡だけ、周囲より少し明るい。

「覚えてるのか」

「毎日ここ通るから」

「何の写真だった」

「避難訓練の列の後ろ。西棟の外壁が少し見えてた」

「人は?」

「そこまでは覚えてない」

 僕はガラスケースの鍵穴を見た。傷がついている。無理に開けたわけではないが、急いで鍵を回した時の浅い擦れだ。

 誰かが噂を撒き、誰かが写真を抜いた。あるいは同じ人間が、順番にやった。

 まだ決められない。でも、昨日まであったものが今日なくなっているなら、少なくとも動いている人間はいる。

「早いな」

 僕が小さく言うと、澪はガラス越しの空白を見たまま答えた。

「待ってるあいだに消えるもの、あるから」

 その一言が、思っていたより深く刺さった。

 たぶん、今回の事件はそこから始まるのだと思った。まだ決めないことが正しさでいられた時間は、もう少しだけ短くなっている。


 放課後。図書室で、僕らは抜き取られた写真の貸出記録を追っていた。正式な貸出はない。つまり、鍵を持っている側が直接触ったか、あるいは開いていた時間に誰かが抜いたか。

 そのどちらにしても、校内の人間だ。


 澪は管理簿をめくる手を止めて言った。

「今日の朝、柚木を見てた子がいる」

「誰」

「二年一組の女子。名前はまだいい」

「また決めないのか」

「そこじゃない。見てた理由が、好奇心か心配かで全然違う」

 僕は一瞬だけ黙った。以前なら、その段階で名前を聞き出そうとしていたと思う。

「……分かった。先に理由を見る」

「うん」

 それだけのやり取りなのに、妙に胸の奥が静かになる。答え合わせではない。歩幅を揃えるための会話だった。


 日が傾き始めた頃、図書室の入口で物音がした。

 振り返ると、柚木遥斗が立っていた。いつもより制服の襟が乱れていて、右手だけが妙に強く握られている。

「これ」

 彼はそう言って、丸めた紙を机へ置いた。

「下駄箱に入ってた」

 開くと、コピー用紙を細く裂いたものだった。黒いトナー文字で一行だけ、短く打たれている。

 ――次は隠しきれない。

 その下に、煤でこすったみたいな黒い指跡がついていた。

 僕は紙に触れかけて、やめた。

 指紋を残したくなかったわけじゃない。まず先に、遥斗の顔を見るべきだと思ったからだ。

「いつ入ってた」

「分かんない。昼にはなかった」

「誰か見た?」

「見てない。……ていうか、見せたくなかった」

 その言い方が、少しだけ苦しかった。見せたくないのに、見せに来たのだ。自分一人で持っていたらまずいと、どこかで分かっているから。


 澪が立ち上がり、紙ではなく遥斗の方へ一歩寄った。

「ありがとう」

 遥斗は少しだけ目を見開いた。

「……何が」

「持ってきてくれて」

「別に」

「別に、じゃなくて」

 澪の声は静かだったが、そこで切らなかった。

「一人で捨てる方が、たぶん楽だった」

 遥斗は答えなかった。けれど、握っていた右手の力だけが少し抜けた。

 僕はその様子を見ながら、やっと紙へ視線を落とした。


 次は隠しきれない。

 その一行は脅し文句であると同時に、予告でもある。誰かはもう、次を起こすつもりでいる。噂だけで終わらせる気がない。

 それが分かった瞬間、教室で杉浦に返した自分の言葉が、胸の奥で少しだけ重くなった。


 まだ決めない。けれど、待っているだけでは間に合わない場面が、もう来ているのかもしれない。

 図書室の窓の外では、西棟の外壁が夕方の色に沈み始めていた。あの場所は三年前に終わったはずなのに、まだ終わった顔をしていない。

 僕は紙を机の上へ置いたまま、小さく息を吐いた。

「……これは、急がないとまずいかもな」

 そう言うと、澪は僕を見た。否定もしない。肯定もしない。ただ、同じ重さのものを見た顔をしていた。

 それだけで十分だった。

 たぶん、ここから先は一人では選べない。

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