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第2章 第12話 その先を決めるのは

 西棟火災の再調査が始まってから、学校の空気はじわじわ変わった。

 西棟前の通路にはコーンが並び、職員室前には記録保全用の段ボールが積まれる。大きな謝罪も、派手な糾弾もない。ただ、『もう終わったこと』だったはずのものが、終わっていなかったと皆が知り始めた。

 それだけで、教室の空気は少し息苦しい。

「どうした、名探偵」

 朝のホームルーム前、杉浦がいつもの調子で言った。

「最近ちょっと静かじゃない?」

 笑いが小さく広がる。

 光一は黒板の週番表を見たまま、一拍置いてから振り返った。

「俺は……まだ決めない」

「出た、それ」

 軽い笑い声が起きる。

 でも、前とは少し違っていた。からかいだけじゃない。今の光一がその言葉を口にする意味を、クラスメイトたちもなんとなく知り始めている。

「なんだよ、その顔」

 杉浦が言う。

「いや、前のお前ならもっと嬉しそうだったから」

「嬉しくはない」

「でも行くんだろ」

「行くよ」

 光一は答えた。

「ただ、前みたいに一人で決めないだけだ」

 そのやり取りを、澪は窓際の席から見ていた。

 言葉は短い。けれど、あの合宿の夜からここまで続いてきたものが、ちゃんと今の光一の中で根づいているのが分かった。少しだけ、誇らしかった。

   *

 再調査の中心に据えられたのは高槻ではなかった。

 高槻を先に出せば、外部下請け一人に責任が集中して終わる。神代の言う通り、それではまた順番を間違える。

 だから二人がまず突きつけたのは、会合の記録と、火災の前から処理順を相談していた音声だった。

 小会議室で向かい合った神代玲奈、栢木史織、そして校長補佐は、誰も最初には口を開かなかった。

 沈黙が長い。

 けれど今の光一は、その沈黙をすぐに破ろうとしなかった。沈黙の中で誰が先に目を逸らすか、誰が誰の反応を待っているか、その順番の方が先に見えたからだ。

「高槻個人の暴走で片づけるつもりなら」

 やがて光一が言った。

「たぶん、また同じことになる」

 校長補佐が顔をしかめる。

「君は何を」

「一人に集めれば楽です」

 澪が静かに続けた。

「でも、三年前もそうやって整理して、ここまで残った」

 神代は目を閉じた。

 栢木は小さく息を吐いた。

「……あなたたち、ほんとうに面倒ね」

 栢木が言う。

「知ってます」

 澪が返す。

「今はそれでいいと思ってるので」

 その返しに、光一は少しだけ澪の横顔を見た。

 前なら、こういう場面で澪は半歩引いていたかもしれない。今は違う。ちゃんと自分の言葉で前へ出ている。

「高槻は、切りやすい駒だった」

 神代がぽつりと言う。

「学校にも、業者にも、地域にも都合が良かった。責任を寄せれば、他が助かるから」

「でも、最初から中心だったわけじゃない」

 光一が言う。

「はい」

 神代は認めた。

「中心にいたのは“仕組み”よ。誰か一人の悪意より、ずっと始末が悪いもの」

   *

 会議が終わったあと、二人は西棟前の廊下を並んで歩いた。

 窓の外は夕方で、ガラスに映る自分たちの姿が少し長い。

「終わった?」

 澪が訊く。

「まだ」

 光一は即答した。

「でも、ここで終わらせる形は決めた」

「どういう意味」

「高槻の名前だけを先に出さない。松永も同じ。最初に潰れる順番を、こっちで固定しない」

 光一は少しだけ息を吐いた。

「その代わり、会合の存在と、火が出る前から処理の話をしてた事実は出す」

「うん」

「それなら、学校だけでも、業者だけでも終われない」

 澪はその言葉を聞きながら、小さく頷いた。

 暴くのではなく、終わらせ方を選ぶ。今の光一は、そういうところまで来ている。

「ねえ」

 澪が言う。

「なに」

「ありがとう」

「急だな」

「急じゃない。言うのが遅かっただけ」

 澪は少しだけ視線を逸らした。

「私、合宿の頃からずっと思ってた。あなたが変わったの、ちゃんと見てた。でも見てるだけじゃだめだった」

「うん」

「だから、並べるようになりたかった」

「今は?」

「少しは並べてると思う」

 光一はそこで立ち止まった。

 それから、照れ隠しみたいに少しだけ肩をすくめる。

「少しどころじゃないだろ」

「自信あるんだ」

「お前がいなかったら、ここまで来てない」

 その言葉は、軽く言ったようでいて、澪の胸にまっすぐ落ちた。

 恋愛の言葉ではない。もっと重くて、もっと逃げ場のない信頼の言葉だった。

「……ごめん」

 澪は小さく言った。

「何に対して」

「色々」

「雑だな」

「うるさい」

 二人とも少しだけ笑った。

 その笑い方が前より自然で、澪はそれが少しうれしかった。

   *

 再調査が公表されて数日後、倉橋伊吹から一通のメッセージが届いた。

『姉が、少しだけ話してくれました』

 短い文だった。添付はない。けれど、その短さだけで十分だった。言えなかった名前と言えなかった事情の間に、ようやく小さな隙間ができたのだろう。

 その日の放課後、図書室で伊吹に会うと、彼女は前より少しだけ顔を上げていた。

「全部じゃないです」

 伊吹は言った。

「でも、姉、やっと『あの時止められなかったのは一人じゃない』って」

「……うん」

 澪が返す。

「それだけでも、前よりだいぶ違う」

「はい」

 誰か一人を悪役にしない終わり方は、たぶんこういう小さな変化を残す。

 派手な決着じゃない。けれど、前より少しだけ息ができる場所を作る。それが今の二人のやり方だった。

   *

 その夜、光一は自室で黒い表紙のノートを開いた。

 西棟火災のページの隣へ、新しい紙を一枚挟む。会合記録、音声メモ、神代の証言、高槻の名、松永の声。全部を書き込んだあと、最後に少しだけ空白を残した。

 足りない。

 けれど、前みたいに足りないまま飛びつく気もしなかった。空白は空白のまま置いておく。置いたまま進む。今はそれでいい。

 そこへ、澪からメッセージが届く。

『まだ起きてる?』

 珍しい文だった。

 光一はすぐに返した。

『起きてる』

 少しして、次が来る。

『今日はちゃんと言っておこうと思って』

 間があいた。

 その間が、妙に澪らしかった。

『助かった。ありがとう』

 光一は画面を見たまま、少しだけ笑った。

 それから、いつもより少しだけ真面目に打つ。

『こっちも。助かった』

 送信したあとで、照れくさくなる。

 でも、もう昔みたいに、そういう照れを無かったことにしたくはなかった。

   *

 翌朝。まだ誰もいない図書室で、澪は返却棚の奥に一冊だけ見慣れない簿冊を見つけた。

 表紙には古い年度番号。中を開くと、西棟火災の二年前に行われた外部合同点検の記録が綴じられている。最終ページにだけ、小さく鉛筆書きが残っていた。

『南館地下保管分 別管理』

 南館地下。

 今まで誰も口にしていない場所だった。

 澪はその言葉を見た瞬間、喉の奥が冷えるのを感じた。

 西棟は終わっていない。たぶん、まだ入口だ。

 扉が開き、光一が入ってくる。

「早いな」

「そっちこそ」

 澪は簿冊を閉じずに、そのまま見せた。

 光一は鉛筆書きを読んで、ほんの少しだけ目を細める。

「……南館地下?」

「うん」

「聞いたことある?」

「ない」

「じゃあ」

 光一は息を吐いた。

「次だな」

 そう言ってから、一拍置く。

 前ならそこで笑っていたかもしれない。けれど今の光一は、笑わなかった。代わりに、少しだけ静かな熱を目の奥へ灯したまま、澪を見る。

「俺は……まだ決めない」

 澪はその言葉を聞いて、小さく頷いた。

 もう知っている台詞だ。けれど、知っているからこそ分かる。これは保留じゃない。簡単な答えに飛びつかないまま、最後まで持っていくための言葉だ。

「うん」

 澪は言った。

「今度も、ちゃんと一緒に行く」

 その返事だけで十分だった。

 西棟の夜は終わった。けれど、学校の奥にはまだ、言葉にされていない場所が残っている。

 二人はもう、前みたいには戻らない。

 そのまま、次の扉へ向かうだけだった。

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