第2章 第11話 西棟の夜
机の上へ、ここまで拾ってきた断片を全部並べた。
新聞の欠落。外部業者名。消防団の先行到着。旧校舎脇で見つかった管理台帳。搬出車両の記録。会合のメモ。遺品ノート。三人目の記名痕。紙の束は薄いのに、見下ろしているだけで息が詰まる。
「……揃ったね」
澪が言った。
「点だけなら、もう十分」
「うん」
光一は頷いた。
頷いたのに、すぐには次の言葉が出なかった。
名前を言うだけなら、たぶんもうできる。誰が黙り、誰がずらし、誰が最後に紙を持ったのか。線にするだけなら足りている。けれど、その線を今ここで誰に向けて引くかが決まらない。
「怖い?」
澪が訊く。
「少し」
「前なら、そこで怖いって言わなかった」
「前は怖くても進めば勝ちだと思ってたから」
光一は写真の束を整えた。
「今は、進み方を間違えたらまた同じことになるって分かる」
「うん」
「うん、で済ませるなよ」
「済ませてない。分かってるって意味」
澪はそこで、一枚の申請書を光一の前へ滑らせた。
神代から渡された、火災当日の臨時立入記録。修正液の下から浮かび上がった名前は、松永圭介ではなかった。もっと嫌なところへ届く名字だった。
「高槻」
光一が低く読む。
「個人事務所の名義人」
「うん。地域設備管理組合の下請け名簿にもある」
「じゃあ、三人目は」
「少なくとも、事故の日にも火災の日にも、この人間は学校に入ってる」
高槻は教師ではない。生徒でもない。けれど、学校の人間が通し、業者側が受け取り、教育委員会側も名前を知っていた。外にいるのに、内に混ざっている人間。
その位置がいちばん厄介だった。
*
西棟へ向かったのは、その日の夜だった。
再調査の前に、どうしても確かめたいことがあった。高槻が運び出したもの。会合の前に消された録音。火災の夜、誰が最後に西棟へ入ったのか。
立入禁止の札の前で、澪が足を止めた。
「ねえ」
「なに」
「今日は、先に走らないで」
「合宿の時も言われた」
「その時、守れた?」
「……半分」
「じゃあ今日は全部」
光一は苦笑してから、小さく頷いた。
「分かった」
「本当に?」
「本当に」
夜の校舎は昼より音が多い。配管の鳴る音、遠くの体育館の反響、誰もいないはずの渡り廊下で風が回る音。西棟の扉を開けると、焦げた匂いはもうないのに、代わりに長く閉ざされていた場所の冷たさだけが残っていた。
「ここ、嫌い」
澪が小さく言う。
「僕も」
「珍しいね」
「お前と一緒にいると、嫌なものが増えた」
「それ褒めてる?」
「半分だけ」
そう言いながらも、光一の喉は少し乾いていた。
火災そのものが怖いんじゃない。ここでまた、誰か一人へ全部を押しつける形の真実を見つけてしまうのが怖い。
*
西棟二階の管理室跡で、二人は古いロッカーの裏に隠された小型レコーダーを見つけた。
外装は焦げている。けれど、内部メモリは生きていた。神代が用意してくれた変換機器で再生すると、最初に聞こえたのは雑音、それから短い呼吸音、そして男たちの声だった。
『今ここで名前を残すな』
『でも目撃してる』
『だから順番を作るんだろ』
『教師側はどうする』
『紙はこっちで持つ。そっちは火を事故にしろ』
短い。けれど十分すぎた。
火災の夜、誰かは火そのものより先に、その後の処理を話していた。
澪が息を止める気配がした。
光一も同じだった。
思っていた以上に、生々しい。誰が悪いかではなく、誰をどう沈黙へ並べるかを本気で話している声だった。
「……最悪」
澪が呟く。
「うん」
「これで全部?」
「いや」
光一はレコーダーを巻き戻した。
最後に、別の小さな音が入っている。机に何かをぶつけた音。そのあとで、ほんの一瞬だけ、若い声が混じった。
『待ってください、それは――』
そこで録音は切れていた。
若い男の声。
高槻かもしれない。松永かもしれない。あるいは、もっと別の誰か。けれど少なくとも、その場には大人だけじゃなかった。
「聞いた?」
澪が訊く。
「聞いた」
「これ、誰」
「まだ決めない」
光一は即答した。
「でも、ここで止めた人間がいる」
*
西棟を出たところで、待っていたみたいに神代玲奈が立っていた。
夜の廊下に、教師一人だけがいる光景は、それだけで少し非現実だった。
「見つけたのね」
彼女は言った。
「はい」
「再生もした」
「はい」
神代は二人の顔を順に見た。
怒るでもなく、慌てるでもない。ただ、とうとうここまで来たか、という顔だった。
「先生は、どこまで知ってるんですか」
光一が訊く。
「最初から全部じゃない」
「今は?」
「今も全部じゃない。けど、何が削られたかは分かる」
神代は壁へ寄りかかり、低い声で続けた。
「高槻は、外から入ってきた人間じゃない。学校が都合よく使って、業者が都合よく受け取って、最後に誰も責任を引き取らなかった人間よ」
「じゃあ、火災の夜にいた若い声は」
「……松永圭介」
澪は目を見開いた。
光一も、一瞬だけ言葉を失う。
「松永は、その夜、止めようとしたの」
神代は言った。
「けど止めきれなかった。だから三人目としても、火災の夜の立会人としても、中途半端に名前が残った」
「じゃあ、あいつは犯人じゃない」
光一が強く言う。
「違う。少なくとも、あなたたちが一番先に向ける相手ではない」
そこが大事だった。
名前は分かった。けれど、最初に責任を向けるべき先はそこじゃない。
*
神代と別れたあと、二人は西棟前の階段に座り込んだ。
夜風が冷たい。話すべきことは山ほどあるのに、すぐには何も出てこなかった。
「ねえ、光一」
「ん」
「今、どうしたい」
「全部出したい」
「うん」
「でも、それを今そのままやると、松永が最初に潰れる」
「うん」
「それは違うと思う」
澪は黙って頷いた。
それでいいと思った。今の光一は、怒りの勢いで一番弱いところへ正義を叩きつけたりしない。そこまで来た。だから、ここまで追えた。
「ごめん」
澪が不意に言った。
光一が顔を上げる。
「何が」
「前に、あなたが暴こうとしてた時、私は壊すことしか考えてなかった」
「……今さらだな」
「今さら。でも、言いたかった」
澪は少しだけ笑った。
「ありがとう、の方が先かもしれないけど」
光一はしばらく黙っていた。
それから、前を向いたまま言う。
「両方言えばいいだろ」
「ずるい」
「何が」
「そういう、ちょうどいい答え出すところ」
その返しに、二人とも少しだけ笑った。
笑えたことが、たぶん救いだった。
そして光一は立ち上がる。
西棟の暗い窓を見上げて、静かに言った。
「俺は……まだ決めない」
それはもう迷いの言葉じゃなかった。
誰か一人へ急いで名前を貼らないための、意志の言葉だった。




