第2章 第10話 言えなかった名前
倉橋伊吹に連絡を入れる時、光一は少しだけ迷った。
もう一度あの名前の話を持ち出すことが、伊吹にとって優しいとは言い切れないからだ。けれど、ここで外す方がもっとひどい気もした。
「今日は、無理に思い出さなくていい」
約束した喫茶店で、光一は最初にそう言った。
伊吹はそれを聞いて、少しだけ笑った。
「前より、そういうこと言うようになりましたよね」
「言わなかったせいで失敗したから」
照れもなく返されて、伊吹はほんの少しだけ肩の力を抜いた。
澪はそのやり取りを横で見ながら、合宿の夜を思い出していた。あの頃の光一なら、答えへ近づくことの方が先に立っていた。今は違う。相手が何を失うかを先に見る。その順番の変化は、もう口先だけじゃなかった。
「写真、見てもらってもいい?」
澪が訊く。
伊吹は少しだけためらい、それから頷いた。
出したのは、個人事務所で保管されていた写真のコピーだった。段ボール、台帳、焦げたケーブル。そして端に映り込んだ、見切れた制服の袖。
伊吹は写真を見るなり、息を呑んだ。
「これ……」
「知ってる?」
「知ってるっていうか、見たことがある」
「どこで」
「姉の部屋で」
光一と澪が同時に顔を上げる。
伊吹は視線を落としたまま続けた。
「卒業の少し前、姉の机の引き出しに同じ箱の写真が何枚か入ってたんです。私、その時は意味が分からなくて」
「梓先輩は何か言ってた?」
「言わなかった。というか、言いかけてやめた」
その言い方に、澪の胸が少しざわつく。言おうとして、やめる。分からないままでも、相手に渡さなきゃいけない言葉がある。その手前で止まる痛みは、少しだけ分かる。
「何て?」
光一が静かに訊く。
伊吹は答えるまでに時間がかかった。
「『あの時、名前を呼べてたら違ったかもしれない』って」
「名前」
「うん」
伊吹は写真を返す時、指先をわずかに震わせていた。怖がっている、というより、覚えてしまった自分をどう扱えばいいのか分からない顔だった。
「姉、あの話になると、いつも途中で止まるんです」
伊吹が言う。
「言いたくないっていうより、どこから言えばいいか分からないみたいで」
「順番が決まらない?」
澪が訊く。
「たぶん。『あの人の名前を先に出したら、他の人がまた黙る』って、一度だけ言ってました」
その一言で、三人のあいだに静かな沈黙が落ちた。
順番。ここでもまた、その言葉が出る。
火災の夜に決められた順番。会合で配られた沈黙の順番。そして、今も誰かの名前を出す順番が人を縛っている。
喫茶店の隅の席で、光一は砂糖も入れないコーヒーを一口だけ飲んだ。
「伊吹、もし姉さんがその名前を言えなかった理由が“怖かったから”じゃなくて、“言ったら他の人が潰れると思ったから”だとしたら」
「……はい」
「それは、優しいって言葉だけじゃ片づかない」
「分かってます」
伊吹は小さく答えた。
「でも、あの人、そういうところあるんです。自分が持てるものなら、自分の方へ寄せちゃうから」
その言い方に、澪は少しだけ目を伏せた。持てると思ってしまうこと自体が、時々いちばん危うい。合宿の時の自分も、少しだけ似ていたのかもしれない。
その一言が、今までよりずっと重く落ちた。
三人目の名前。火災の日に呼ばれなかった名前。あるいは、呼べなかった名前。
*
喫茶店を出たあと、三人は川沿いの遊歩道を少しだけ歩いた。
夕方の風が強い。伊吹は途中で立ち止まり、欄干の向こうを見たまま言った。
「私、ずっと姉が黙った理由、怖かったんです」
「……うん」
澪が返す。
「誰かを庇ったのかもしれないって思ってた。でも、違ったのかもしれない」
「違う?」
光一が訊く。
「庇ったんじゃなくて、言えなかった。言えなかったまま、時間が経っちゃったのかもしれない」
その言葉に、澪は何も返せなかった。
言えなかったまま時間が経つことの重さを、今の自分は少し知っているからだ。直人への言葉も、もっと早く出せたはずだった。出せなかったのは、誰かを傷つけたくなかったからじゃない。自分が曖昧なままでいたかったからだ。
「伊吹」
澪はやがて言った。
「今、無理にその先まで思い出さなくていい」
伊吹は少し驚いたように澪を見る。
「でも」
「でも、今日はここまででも十分重い」
光一はその横で黙っていた。
澪が先にそう言ったことを、ちゃんと受け止めている顔だった。
*
帰り際、伊吹は店のドアの前で振り返った。
「雨宮先輩」
「なに」
「前より、怖くないです」
「何が」
「訊かれるのが」
それは褒め言葉としてはだいぶ変だった。けれど、光一は少しだけ笑って受け取った。
「それ、成長したってことでいい?」
「たぶん」
伊吹も少しだけ笑った。
そのやり取りを見て、澪は胸の奥が静かに温まるのを感じた。変わったのは言葉だけじゃない。相手がどこで止まりそうかを、前よりちゃんと見られるようになっている。
その夜、光一と澪は写真と伊吹の証言を机に並べ直した。
持ち出されたのは管理台帳だけじゃない。録音機器もあった。だとすれば、火災そのものより前に“残されたくない声”があった可能性が高い。
「会合の録音?」
澪が言う。
「まだその前かも」
光一が返す。
「事故の日?」
「うん。旧校舎事故と火災の間に、誰かが何かを記録した」
そう言ってから、彼は少しだけ顔をしかめた。
「でも、ここでまた一人の名前に飛ぶのは違う」
「まだ決めない?」
「まだ決めない」
そのやり取りは短かったのに、澪には妙に残った。
昔の光一なら、ここで“誰が持ち出したか”に飛んでいた。今は“何を持ち出したか”と“なぜ言えなかったか”の方を先に見ている。
「ねえ」
澪が言う。
「なに」
「あなた、前より嫌なところが増えた」
「急に悪口?」
「違う。逃げ道を塞ぐところ」
「褒めてないだろ」
「半分だけ」
光一は少しだけ笑った。
その笑い方が、シーズン1の頃より静かになっているのを、澪は知っている。
*
翌日、神代玲奈から一本の電話が入った。
火災当日の臨時立入申請に、ついに消し切れなかったフルネームが見つかったというのだ。名字だけではない。名前まで、かすかに読める。
「ただし」
神代は言った。
「ここから先は、名前を知れば楽になる話じゃない」
「どういう意味ですか」
光一が訊く。
「その名前を口にした瞬間、別の人たちがまた黙るから」
電話を切ったあと、しばらく誰も喋らなかった。
名前が分かる。なのに、それで進むとは限らない。
事件はもう、犯人当ての形からだいぶ遠いところへ来ている。
「行く?」
澪が訊く。
「行く」
光一は答えた。
「でも、言う順番は間違えない」
「うん」
その返事だけで、今の二人には十分だった。
窓の外では、もう夕方の光が薄くなっている。言えなかった名前は、ようやく手の届く場所まで来ていた。
けれど、その名前をどう扱うかの方が、たぶんずっと難しかった。




