第2章 第9話 持ち出された夜
点検会社が当時使っていた仮設搬出車両の記号は、思ったより簡単に見つかった。
問題は、その行き先だった。
「学校の中だけで終わらないな、これ」
光一が言う。
澪は黙って頷いた。
業者側の倉庫跡地は、半分空き家みたいになっていた。外された看板の跡、壁に残った配送表、放置されたラベルプリンタ。人がいなくなったあとにしか出ない静けさがある。風が入るたび、どこかで金属が鳴った。
「こういう場所、嫌い」
澪が言う。
「合宿の時の倉庫、思い出した?」
「思い出したから嫌い」
その返事に、光一は一瞬だけ目を細めた。
合宿の夜。焦げた匂い。飛び出してきた凪。あの夜を通ってきたからこそ、今の二人はこの場所に並んで立っている。そう思うと、少しだけ足元が定まる。
倉庫の中に残っていた配送表は、ほとんどが破れていた。だが、一枚だけ半端に残っている。そこに書かれた搬出先は、学校でも自治会でもなく、個人名義の古い事務所だった。
「誰だ、この名字」
光一が言う。
「……見覚えはない」
澪は紙をのぞき込んだ。
「でも、個人名義って嫌な感じ」
「会社を通したくなかった時のやり方だな」
そこへ追い打ちみたいに、奥の棚から古いラベル箱が見つかった。番号は西棟の備品台帳と一致している。つまり西棟から持ち出されたものは、単なる焼失扱いでは終わっていない。どこかへ運ばれている。
「何を隠したかったんだ」
光一は低く言った。
「帳簿?」
「だけじゃない気がする」
*
個人名義の事務所は、川沿いの古いビルの三階にあった。
今は別の会社が入っている。だが一階のポストの奥に、前の名札の痕だけが残っていた。名字は――高槻。
「聞いたことある?」
澪が訊く。
「ない。けど、こういう痕って嫌だな」
「分かる」
管理人の老人は、最初は何も覚えていないと言った。だが、光一が三年前の西棟火災の日付を出すと、少しだけ顔色を変えた。
「ああ、あの頃か」
「知ってるんですか」
「知ってるってほどじゃないが……夜に荷物を運び込んでたよ。若い男が二人」
「何を?」
「箱だよ。段ボール。けど、学校の備品みたいな雑な積み方じゃなかった」
老人は眉を寄せる。
「大事なもん隠す時の持ち方だった」
その言い方が妙に残った。
大事なものは、壊れやすいから丁寧に持つ。隠したいものも、同じように丁寧に扱われる。
「男は誰か分かりますか」
「顔は覚えてない。でも、一人は学校関係者っぽかったな」
「どうして」
「敬語の使い方が、教師に慣れてる感じだった」
曖昧な証言だ。けれど、今の二人には十分だった。証言は決定打じゃなくてもいい。次の場所へ進むための足場になればいい。
*
帰り道、夕立が来た。
二人は高架下へ逃げ込み、雨が白く落ちるのを並んで見た。こういう何でもない待ち時間ほど、言わないでいることが浮かび上がる。
「柏瀬、最近どう?」
光一が訊く。
「普通」
「そう」
「気を遣ってる?」
「少し」
「いらない」
「そう言うと思った」
澪は壁に寄りかかり、雨脚を見つめた。
直人のことを完全に引きずっているわけではない。けれど、終わった話としてきれいに棚へ上げられるほど器用でもなかった。
「ねえ、光一」
「なに」
「私、あの人に、ちゃんと『分からない』って言えばよかった」
「うん」
「今さらだよね」
「今さらでも、次に使える」
「それ便利な言い方」
「事実だろ」
光一は雨の向こうを見たまま言った。
「失敗を、終わったから意味ないって言い出したら、何も残らない」
「それ、誰に言ってるの」
「半分はお前。半分は僕」
澪はそこで、少しだけ笑った。
そうだ。今のこれは自分だけの話じゃない。光一もまた、シーズン1の終わりと合宿の夜を引きずったままここにいる。引きずったままでも前へ進めると、先に見せたのは光一の方だった。
*
高架下で雨宿りしているあいだ、光一はポケットから例の付箋を取り出した。『持ち出されたのは物だけじゃない』。文字の癖は前に届いた脅し文句と少し似ている。止めたいのか、導きたいのか、その境目だけが曖昧だ。
「同じ人だと思う?」
澪が訊く。
「たぶん。少なくとも、こっちの動きを見てる人間」
「味方じゃない」
「でも、完全な敵でもない」
光一は付箋を折り、また伸ばした。
「本当に消したいなら、こんな回りくどいことしない」
「じゃあ何」
「自分では出られない場所から、こっちへ押してる」
澪は雨の向こうを見た。押してくるだけで、名乗らない。そういう手は、いつも少し卑怯だ。けれど、名乗れない事情があるのかもしれないと思ってしまう自分もいた。
夜、実際にビル三階の事務所跡へ入り直した時、昼よりずっと空気が重かった。窓の外の川は黒く、廊下の非常灯だけがやけに明るい。光一が懐中電灯で床を照らすと、埃の上に新しい靴跡が二つだけ残っていた。自分たちのものではない。つい最近、誰かがここに来ている。
「見られてる、じゃなくて」
澪が低く言う。
「同じものを探してる」
「うん」
光一も声を落とした。
「しかも、まだ見つけ切れてない」
壁際の書類棚をずらした時、奥から出てきたのは薄いプラスチックケースだった。中には西棟の設備写真が何枚か入っていて、最後の一枚だけ裏にメモがある。『夜の搬出は一回じゃない。二回目は人』。
その夜、二人のもとへ差出人不明の封筒が届いた。
中には、ビル三階の事務所で撮られたらしい粗い写真が一枚。段ボール箱。管理台帳。焦げた延長コード。もう一つ、小さな録音機器。そして付箋が一枚。
『持ち出されたのは物だけじゃない』
澪は写真を見た瞬間、喉の奥が冷えるのを感じた。
物だけじゃない。
なら、何だ。記録か。証言か。それとも、人そのものか。
「これ」
光一の声も低かった。
「三人目の“名前”じゃなくて、“立場”を持ち出したのかもしれない」
「立場?」
「事故と火災の両方を知ってる人間を、学校の中から外へずらした」
その考えは、あまりにも嫌だった。
けれど嫌なくらい筋が通る。誰かを沈黙させる方法は、黙らせることだけじゃない。居場所ごと動かしてしまえばいい。
「明日、もう一回あの事務所行く」
光一が言う。
「今度は昼じゃなくて、夜」
「なんで」
「写真の光が違う。夜の方が、まだ残ってるものがある」
澪は一瞬だけ迷った。
危ない、と思う。でも止めるだけでは足りない。今の自分たちは、もうそういう段階ではない。
「じゃあ、私も行く」
「止めないのか」
「止めても一人で行くでしょ」
「……少しは成長した」
「それ、私の台詞」
雨はいつの間にか止んでいた。
けれど、二人の間に降りてきたものはまだ消えていない。持ち出された夜は、たぶん一度じゃない。
そう思わせるには十分すぎる写真だった。




