第2章 第8話 揺れる証言
三人目の候補は、かなり絞れていた。
教師でもない。普通の生徒でもない。話を通しておく必要があって、しかも記録から名前を消された誰か。そこまで絞れているのに、肝心の名前だけが霧の中に残っていた。
「消し方が不自然なんだよな」
光一は生徒会補助名簿のコピーを指先で弾いた。
「完全に消したいなら、行ごと切る。なのに一人分だけ、消した跡が残りすぎてる」
「消す側も、全部は消したくなかったのかも」
澪が返す。
「良心?」
「迷い」
「そっちの方が嫌だな」
光一はそう言ってから、少しだけ目を細めた。
迷いがあるなら、どこかに綻びが残る。だから追える。そう考える自分と、迷いを責めたくない自分が、胸の中で少しだけぶつかった。
*
三人目の手がかりとして浮かんだのは、火災当時に校内補助員として出入りしていた卒業生の名前だった。
神代玲奈が持ってきた古い文化祭実行名簿の隅に、見覚えのない追記がある。『臨時補助 松永圭介』。学校に籍はもうないが、生徒会室の鍵だけは扱えた、と備考に残っていた。
「卒業生?」
澪が眉を寄せる。
「火災の三ヶ月前に卒業してる」
「じゃあ、事故の日に校内にいてもおかしくない理由がない」
「普通ならな」
光一は名簿を閉じた。
「でも、鍵を扱えたって書いてある時点で普通じゃない」
松永圭介にたどり着くまでに、二人は当時の文化祭関係者へ聞き込みをした。名前を出した瞬間に「ああ」と顔をする人と、「誰だっけ」と首をかしげる人がいる。その差が妙だった。印象が薄い人間なら、皆が同じくらい曖昧なはずなのに、知っている側だけが一拍遅れる。
「忘れてるんじゃなくて、出しにくいのか」
光一が呟く。
「そういう名前ってある」
澪が言う。
「口にした瞬間、そこから先を説明しなきゃいけなくなる」
「今のお前、実感こもってるな」
「悪かったね」
「悪いとは言ってない」
*
松永本人は、すぐには会ってくれなかった。
電話はつながる。けれど、「その話は知らない」で切ろうとする。知らないと言う人間の声ではなかった。触れたくない時の切り方だった。
「追う?」
澪が訊く。
「追う」
光一は答えた。
「でも追い詰めるのとは違う」
「そこ、ちゃんと分けるんだ」
「分けないと、また同じ失敗する」
その返しが自然に出るようになったことを、澪は少しだけ嬉しく思った。言葉にはしなかったが、たぶん顔には少し出ていた。
「何」
「別に」
「そういう時のお前、だいたい何か思ってる」
「あなたもね」
結局、松永と会えたのは駅前の小さな喫茶店だった。
先に席についていたのは、想像よりずっと普通の男だった。二十代半ば。細いフレームの眼鏡。人目を引くタイプではない。だからこそ、記録から消えていても誰も強く探さなかったのかもしれない。
「名前を出さないでほしい」
座ってすぐ、松永は言った。
「今日はその約束だけ先にもらえますか」
「内容次第です」
光一が言う。
即答に近かったが、声は硬すぎなかった。
「全部を隠す気なら帰ってください。でも、話すなら聞きます」
松永は苦く笑った。
「雨宮くん、だっけ。前よりずっと厄介になったね」
「前を知ってるんですか」
「久慈原さんから、少し」
その名前が出た瞬間、店の空気が一段だけ冷えた気がした。
*
松永の証言は、最初から最後まで揺れていた。
旧校舎事故の日、自分は校内にいた。けれど呼ばれた理由は知らない。西棟火災の日、自分は外にいた。けれど中へ入ったかどうかは言いたくない。知っていることと、言えることがぴたりと重なっていない。そのずれが、かえって本物だった。
「見たんですね」
澪が言った。
「……何を」
「誰かが、事故と火災を別々じゃない形で扱ってるところ」
松永はすぐには答えなかった。
代わりに、テーブルの上の水を指先で回した。
「見た、というより」
やがて彼は言った。
「気づいた時には、もう遅かった」
その言葉を、澪は自分の中へそのまま沈めた。
知ってしまうことは、いつも少し遅い。
シーズン1の時より、ずっとはっきりそう思う。
「名前は言えない」
松永は続けた。
「一人じゃないから」
「一人じゃない?」
光一が眉を寄せる。
「責任が?」
「違う。見て見ぬふりをした人間が」
松永は顔を上げた。
「誰か一人を悪役にしたら、他の人間はまた助かる」
その言葉に、光一はすぐ返せなかった。
正しいからだ。正しいし、だからこそ難しい。
*
帰り道、澪は珍しく先に口を開いた。
「今の、どう受け取る?」
「一人に決めるなってことだろ」
「それだけ?」
「……たぶん、もう一つある」
光一は少し考えた。
「名前を出す順番を間違えるなってことだ」
澪はその返しに少しだけ目を見開いた。
前の光一なら、ここで“誰だ”の方へ強く寄っていたはずだ。今は違う。言う順番と、守る順番を一緒に考えている。
「ほんとに変わったね」
「何回言うんだよ」
「何回でも言う。前は、そこまで考えなかった」
「前の話はやめろ」
「嫌」
「なんで」
「今のあなたがそこに勝ってるの、ちゃんと見ておきたいから」
その言い方は少しだけ照れくさかった。
言った澪自身も、すぐに目を逸らした。
でも光一は、珍しくそのまま受け取った。
「……ありがとう」
「そういうの、さらっと言うようになったよね」
「お前が言えって言った」
「そこまで命令してない」
会話は短いのに、胸のどこかが少しだけ軽くなる。
事件は重くなる一方なのに、二人の間だけは逆に前より軽やかに息ができる。それが今の救いだった。
その夜、松永から追加で一枚だけ写真が送られてきた。
画質は荒い。夜の校舎裏。西棟の非常口近く。そこに映っていたのは、業者の腕章をつけた男と、生徒会バッジのついた誰かの腕だった。顔は見えない。けれど、バッジの形だけで十分に嫌な予感がした。
「これ、夜だよな」
光一が言う。
「うん」
「じゃあ、火が出る前だ」
「どうして」
「出たあとなら、こんな近くで立ち話してる余裕はない」
澪は写真を見つめたまま、小さく息を呑んだ。
火災は起きたのではない。
起きる前から、何かが動いていた。そう思わせるには充分な一枚だった。




