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第2章 第6話 付き合えない距離

 直人と付き合い始めて三日目の放課後、澪はスマホを見下ろしたまま廊下の窓に寄りかかっていた。


『今日、少し話せる?』

 短いメッセージだった。

 困らせるような文じゃない。むしろ、返しやすいように整えられている。なのに、指が止まった。何を返せばいいか分からないわけではない。分かるのに、言葉にする順番だけが妙に重かった。

「まだ返してないのか」

 声に振り向くと、光一が階段を上がってくるところだった。手には資料室から持ち出したファイルがある。相変わらず事件の匂いがすると資料ごと持って帰ってくる顔だった。

「見ないで」

「見てない」

「見た顔してる」

「そういう顔してるお前が悪い」

 澪はスマホを伏せた。

 言い返したいのに、言葉の切れ味が鈍い。自分でも分かるくらいに。

「柏瀬?」

「うん」

「何て返すか迷ってる」

「うん」

「お前、最近うんしか言わないな」

「下手に何か言うと怒られそうだから」

 それは少しだけ正しい。

 澪は小さく息を吐いた。

「……私、別に嫌なわけじゃない」

「だろうな」

「でも、一緒にいる時の感じが、うまく掴めない」

「それも分かる」

 そこで澪は顔を上げた。

 光一が当たり前みたいにそう言ったのが、少しだけ癪だった。

「全部分かったみたいに言わないで」

「分かったみたいにじゃない。実際ちょっと分かる」

「何が」

「お前、相手に合わせる時、最初に説明を削るだろ」

「……」

 図星だった。

 澪は黙り込んだ。黙ると余計に肯定になるのに、それでも言い返せなかった。

「僕には通じるからな」

 光一は壁に寄りかかりながら続けた。

「でも、他のやつにはたぶん通じない」

「分かってる」

「分かってる顔じゃない」

「うるさい」

 澪はスマホを握り直した。

 その小さな仕草だけで、たぶん今の自分がどれだけ不器用か全部見えてしまっている気がした。

   *

 事件の方も、同じくらい面倒だった。

 教育委員会の臨時職員、栢木史織は資料の開示請求に対して表向きは丁寧だったが、西棟の改修関係だけを妙に丁寧に遮った。断り方がうまい人間は、たいてい一度は通したことがある。

「今は出せません」

 栢木はそう言って、紙の端を揃えた。

「『今は』って便利ですよね」

 光一が言う。

「便利じゃなくて、正確なんです」

「じゃあ、いつなら出るんですか」

「その質問に今答えられないから、今は出せません」

 会話としてはきれいだ。きれいすぎて、逆に信用できない。

 澪は栢木の視線の揺れ方を見ていた。嘘をついている人の目ではない。けれど、本当の半分しか出していない人の目だった。

「何を庇ってるんですか」

 澪が訊くと、栢木は初めて少しだけ表情を崩した。

「庇う、という言い方は好きじゃないわ」

「じゃあ」

「順番を間違えると、潰れる人がいるだけ」

 その答えが、かえって嫌だった。

 正義でも保身でもなく、実務の顔をした沈黙。そういうものが一番厄介だと、澪は思った。

   *

 直人とは、結局その日の帰りに会った。

 図書室の裏手にある小さな渡り廊下。人通りが少なくて、声が響きすぎる場所だった。

「ごめん。返事、遅くなった」

「いいよ」

 直人は笑った。無理をしていない、静かな笑い方だった。

「篠宮さん、困ってるだろうなと思ってた」

 その一言で、澪の胸が少しだけ痛んだ。

 見抜かれていることより、見抜いたうえで責めてこないことの方がつらい。

「私、ちゃんとやろうとはしてる」

「うん」

「でも、たぶん、ちゃんとやる順番がちょっと変なんだと思う」

「そうかもね」

 否定してくれなかった。

 そのことに、澪は少しだけ救われ、同時に逃げ場をなくした。

「僕、篠宮さんのこと嫌いになったわけじゃないよ」

 直人は言った。

「でも、たぶん今のままだと、ずっとどこまで入っていいか分からない」

「……」

「雨宮と話してる時の篠宮さん、すごく自然なんだ。説明しなくても分かる前提で立ってる感じがする」

「それは」

「羨ましいとかじゃない。俺には、その温度の合わせ方が分からないってだけ」

 澪は答えられなかった。

 反論したいわけではない。むしろ正しいと思った。だから言い返せない。

「ごめん」

 ようやく出たのは、それだけだった。

 それが足りないことも、分かっていた。

 直人は首を横に振った。

「謝らせたいわけじゃないよ」

「でも」

「うん。でも、これ以上続けても、お互いちょっと苦しいと思う」

 誠実な別れだった。

 静かで、きれいで、だからこそ澪に刺さった。怒られた方が楽だったかもしれないと、一瞬だけ思ってしまった自分にまた嫌気が差す。

   *

 その帰り道、澪は昇降口で立ち止まった。

 外はもう薄暗い。部活帰りの声が遠くから聞こえる。泣きたいわけじゃなかった。悲しいというより、納得してしまうのが重かった。

「終わった?」

 背後からの声に振り返ると、光一だった。

 澪は一瞬だけ黙り、それから短く言った。

「うん」

「そっか」

「終わると思ってた?」

「少し」

 遠慮がない。

 でも、今はその遠慮のなさがありがたかった。

「私、そんなに分かりやすい?」

「お前が説明を削る時の顔は、長い付き合いだからな」

「それ、全然慰めになってない」

「慰めるつもりで言ってないし」

 光一はそう言って、自販機で買った温かいお茶を澪へ渡した。

 甘くないやつだ。そこまで含めて、妙に光一らしい。

「今日は、甘いのじゃなくていいだろ」

「……よく分かってる」

「付き合い長いからな」

 それを言い返されると、澪は少しだけ笑うしかなかった。

「ごめん」

 澪は小さく言った。

「たぶん、相手が悪かったんじゃない」

「知ってる」

「知ってるんだ」

「お前が分かってるなら、そこで止めとけ」

 優しいのか雑なのか分からない言い方だった。

 でも、今はその曖昧さがちょうどよかった。大げさに慰められると、自分の失敗まできれいな話になってしまう気がする。

   *

 その夜、栢木から流出したメモの断片が届いた。

 差出人不明。コピー用紙を雑に折っただけのものだった。そこに書かれていたのは、三年前の会合日と出席者の略号。学校、点検会社、消防団、教育委員会。四つの名前が、短い線でつながれている。

「これ、ほんとに外から流れてきたと思う?」

 澪が言う。

「半分は外。半分は中」

 光一が答えた。

「どういう意味」

「作ったのは中の人間。でも、今の場所から押し戻されてる」

「嫌な言い方」

「嫌な形だからな」

 メモの下には、もう一行だけあった。

『一人の責任にすると、また消える』

 澪はその文字をしばらく見ていた。

 一人に決めるな。分かりやすい悪役を作るな。そう言われている。

 それは事件のことだけじゃない気がした。

「ねえ、光一」

「なに」

「私、柏瀬に悪いことした」

「うん」

「慰めないんだ」

「慰めたら、お前もっと腹立つだろ」

「……ちょっとだけ」

「だろ」

 光一はメモを机の上に置いたまま、静かに続けた。

「でも、それ分かったなら、次は変えられる」

「簡単に言う」

「簡単じゃないよ。でも、そこで止まる方がたぶんきつい」

 澪は返事をしなかった。

 でも、その言葉は残った。謝ることも、ありがとうと言うことも、昔の自分よりは少しだけできるようになっている。なら、次に必要なのは、相手が分からないままでも言葉を渡すことなのかもしれない。

 机の上のメモを見下ろしながら、澪は小さく息を吐いた。

 事件も、自分のことも、まだ何一つきれいには終わっていなかった。


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