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第2章 第5話 澪の選び方

 火災の線を追いながらも、学校の日常は容赦なく流れていた。

 文化祭準備の係決め、進路調査票の提出、委員会の呼び出し。そういう普通の予定の隙間で、人は平気な顔をして告白したりもする。


 澪が柏瀬直人に呼び止められたのは、放課後の渡り廊下だった。窓の向こうではグラウンドの掛け声が跳ねていて、告白にはひどく似合わない。似合わないのに、直人の声だけは妙にまっすぐだった。

「ちょっと、時間ある?」

「少しだけなら」

 そう答えた時点で、何の話か半分くらい分かってしまったのが嫌だった。

 直人は手すりに触れたまま、少しだけ視線を落とした。

「急がせるつもりはない。だから、ちゃんと考えてからでいいんだけど」

「うん」

「俺、篠宮さんのこと好きだ」


 澪はそこで、すぐに何かを返せなかった。

 断りたいわけではなかった。嫌でもなかった。むしろ、こういう言葉を軽くしないで渡そうとする相手なのだと、直人の顔を見て分かった。だからこそ、余計に困った。

 好きかどうかを考えるより先に、どう返せば失礼にならないのかを考えてしまった。

 そういう順番の自分が、あまり好きではなかった。


「……少し、考えさせて」

「うん。待つ」

 それだけで、直人はそれ以上踏み込まなかった。

 返事を急かさない優しさが、かえって重かった。

   *

「顔、変だぞ」

 翌日の昼休み、購買のパンを片手に言ってきたのは杉浦だった。

 光一ではなく、澪に向かってである。

 珍しい。いや、正確には、澪の顔色に他人が気づくのが珍しかった。

「そう」

「そう、じゃなくて。なんかこう、図書室の本が急に人語を話し始めた時みたいな顔してる」

「たとえが雑」

「雑でも伝わったろ」


 そこで光一が遅れて教室へ戻ってきた。手には旧台帳のコピーがある。いつものように事件の続きを持ってきた顔だったが、杉浦がにやにやしているのを見て一瞬だけ眉をひそめる。

「今度は何だ」

「篠宮の顔が変」

「お前、本当に失礼だな」

「でもお前も気づくだろ」

「……気づくけど」

 そこでやっと、光一の視線が澪へ向いた。

 澪はその視線を正面から受ける前に、先に言った。

「昨日、柏瀬に告白された」

「は?」

 間抜けな声だった。

 澪は少しだけ救われた。変に整った反応をされるより、その方がずっと楽だった。

「いや、待て。柏瀬って、文化委員の?」

「うん」

「へえ……」

「へえ、で終わるんだ」

「いや、終わらないけど。ちょっと待て」

 光一はパンの袋を机へ置き、腕を組んだ。


 昔なら、こういう場面でもっと軽口を言っていたかもしれない。冷やかしたり、いらない確認をしたり。けれど今は、言葉を選んでいるのが分かった。

「……で、お前は」

「考えさせてって言った」

「それは」

「卑怯?」

「そういう意味じゃない」

 光一は視線を落とし、それから短く息を吐いた。

「お前が無理して合わせるなら、たぶんうまくいかない」

「厳しい」

「正しいだろ」

「正しいけど、ちょっと腹立つ」

 澪がそう返すと、光一は少しだけ肩をすくめた。


 その顔を見て、澪は自分でも気づかないうちに力が入っていたのだと知った。怒ってほしいわけでも、止めてほしいわけでもない。ただ、自分では分からない何かを、誰かに先に言われたかったのかもしれない。

「僕が決める話じゃない」

 光一は続けた。

「でも、お前が無理しないなら、それでいい」

 そこまで聞いて、澪はようやく、胸の奥で固まっていたものが少しだけほどけるのを感じた。

 嫉妬も、茶化しも、妙な気遣いもない。

 ただ、自分の癖まで見たうえでそう言ってくるところが、少しだけむかついて、少しだけありがたかった。

   *

 事件の方も、止まってはいなかった。

 西棟火災の仮設配線図を洗っていた光一は、昼休みの終わりに急に顔を上げた。

「これ、変だ」

「今さら?」

「今さらだよ。見慣れると鈍る」

 彼が指したのは、西棟裏の臨時電源の線だった。


 本来なら必要ない迂回接続が一本だけ残っている。しかも、その承認印は学校のものではない。点検会社と、別の地域設備管理組合の略号だった。

「事故で燃えた、じゃない」

 光一は図面の上を指でなぞった。

「燃えやすい形のまま放置されてた」

「誰かが見落とした?」

「見落としたなら、あとで修正記録が残る。これは最初から、これで通してる」

 澪は図面をのぞき込みながら、胸の奥に嫌な冷たさが広がるのを感じた。


 火災は、ただ起きたのではない。

 少なくとも、起きてもおかしくない形は人の手で作られていた。

「つまり」

「まだ決めない」

 光一はすぐに言った。

「誰がやった、じゃなくて。誰がこの形を了承したか、からだ」

 その言い方に、澪は少しだけ目を細めた。

 以前の光一なら、ここで結論へ飛びついていた。今は、飛びつかない代わりに、順番を作る。

「成長した」

「自分で言うな」

「お前が言ったんだろ、合宿の時」

「細かく覚えてるの、ちょっと気持ち悪い」

「失礼だな」

 二人のやり取りはいつも通りなのに、温度だけが少し違っていた。

 前より、ちゃんと並んでいる。

   *

 その日の帰り道、澪は直人へ短いメッセージを打った。

 何度も書き直した末に、残ったのはたった一行だった。

『ちゃんと考えたいから、少しだけ時間をください』

 送信してから、遅いと思った。

 もっとましな言い方があった気もした。けれど、それでも何も言わないよりはいい。少なくとも、そう思いたかった。


 すぐに返信が来た。

『分かった。待つよ』

 短い。

 その短さが直人らしくて、澪は余計に苦しくなった。

 誠実に返されると、自分の曖昧さの方が目立つ。

 その夜、図書室で借りた資料を返しに行くと、受付台の上に黒い表紙のノートが置かれていた。西棟の火災。旧校舎事故。三人目。全部が少しずつつながっていくのに、自分のことだけは相変わらず曖昧なままだ。


「考えごと」

 閉架の棚の向こうから、光一の声がした。

「いたの」

「ひどい言い方するな」

 澪が振り向くと、光一は返却用の台車を押していた。

 そのまま台車を止め、彼は澪の前で少しだけ首を傾げる。

「柏瀬のこと?」

「……半分」

「半分は事件か」

「半分は事件。半分は自分」

 そう答えると、光一は一拍だけ黙った。


 それから、前よりずっと静かな声で言った。

「お前、自分のこと考える時の方が顔つき悪いよな」

「今の、慰め?」

「違う。事実」

「最低」

 でも、少しだけ笑ってしまった。

 笑ったあとで、澪はそのまま口を開く。

「私、たぶん、相手に合わせるの下手」

「知ってる」

「知ってるんだ」

「長い付き合いだからな」

「それ、励ましにも何にもなってない」

 光一は少し考えてから、手元の台車を軽く叩いた。

「じゃあ、こういうのは」

「なに」

「下手でも、言うしかない時はある」

「……うん」

「今のお前、ちゃんと考えようとはしてるだろ。それで十分じゃないか」

 澪は返事をしなかった。

 十分かどうかは、まだ分からない。

 でも、そう言われると少しだけ救われる。正解を出せと言われるより、ずっと。


 図書室を出る直前、二人は管理簿の新しい書き換え跡に気づいた。

 火災資料の閉架へ入れる時間帯が、また不自然にずれている。誰かが、管理の穴を選んで動いている。

「向こうも急いでる」

 光一が言った。

「お前の返事待ちとは関係なく、事件は進むな」

「最悪」

「でも、待ってくれる相手がいるなら、待たせたままでもちゃんと返した方がいい」

 澪はその言葉に少しだけ目を見開いた。

 言い方はぶっきらぼうなのに、たぶん今のこれは、光一なりの優しさだった。

 その夜遅く、澪は直人へもう一度だけメッセージを送った。

『少しだけ、試させてほしい』

 送信したあとで、これが正しい言い方ではないと分かった。

 でも、今の自分に出せるいちばんましな言葉は、たぶんこれだった。


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