第2章 第4話 旧校舎にいた三人目
旧校舎事故と西棟火災を結ぶ線。
その仮説を確かめるため、二人は旧校舎封鎖前の清掃記録を洗うことにした。清掃当番表、修繕申請、備品移動票。地味な紙ばかりだが、学校は紙で嘘をつく。だから紙は捨てられない。
その過程で見つかったのは、旧校舎事故の日だけ、見学者として三人目の記名があることだった。被害者、教師、それ以外にもう一人。名前の部分だけが消されている。けれど消し跡の長さは女子の名前ではない。男子名、それも四〜五文字程度。光一はすぐには推理を口にしない。代わりに、消した人間が何を残したかを考える。長さ、筆圧、修正液の重ね方。残った痕跡の方を見る。
澪は名簿の端に押された小さな角印で指を止めた。校外立入許可。旧校舎事故の日に、そんな印が必要になる理由は限られている。旧校舎だけを見に行ったなら要らない。別棟か、敷地の外か、それとも西棟の裏手か。紙の上の小さな違和感なのに、そこだけ妙に冷たく見えた。
その日の放課後、文化委員の作業で資料を運んでいた澪は、廊下で柏瀬直人に呼び止められた。『これ、篠宮さんのクラスの分も混ざってたから』。渡されたファイルを受け取るついでみたいに、彼はふっと言う。『篠宮さんって、人に頼るの下手そうだよね』。からかいじゃない。見たままを、そのまま置く言い方だった。澪は返事に詰まる。光一には言わなくても伝わることが多い。だから、自分がどれだけ説明を省いて生きてきたのか、こういう時だけはっきり分かる。
夜、及川から届いた追加資料の添付には、三年前の火災後に旧校舎脇から回収された備品一覧があった。工具箱。焦げた延長コード。空になった消火器。そして、本来なら西棟の管理室にあるはずの管理台帳。火が出たから慌てて運んだ、では辻褄が合わない。先に動かしたものがあって、そのあとに火が来た。そんな嫌な順番だけが、紙の上に静かに残っていた。
放課後、光一は旧校舎事故の被害者の証言メモを見つけた。その中に一文だけ、消し忘れがある。『いたのは二人じゃない』。その短い一行を見た瞬間、廊下の空気まで少し冷えた気がした。三人目は、噂の中ではなく、ちゃんと本文の中に残っていたのだ。
旧校舎の清掃記録を机いっぱいに広げたまま、光一はしばらく黙っていた。三人目の名前が消されていることより、その名前を消した誰かがいたことの方が重い。誰かは知っていて、今も知っている。記録は自然に薄れるんじゃない。人の手で薄くされる。そう思ったところで、澪が別の紙束から一枚抜いた。
「これ」
用務員記録の端に、『南側通路案内』の文字がある。事故の日付と同じ欄だった。
「南側って、西棟の裏に抜ける方か」
「うん。旧校舎の見学だけなら、わざわざそこは通らない」
事故の日と火災の日は、やはり別の箱に入っていない。そう考えた瞬間、光一には机の上の紙が急に近く見えた。三人目を探す話は、もう一人の目撃者探しじゃない。学校の外から混ざっていた手を探す話に変わり始めている。
放課後、澪は神代玲奈から旧校舎南側通路の使用記録を借りる。そこには事故当日の放課後だけ、立入許可の押印が二重になっていた。誰かが正式手続きを通し、そのあとでもう一人が後追いで通った跡だ。消された三人目は偶然そこにいただけではない。通されたのだ。
光一は三人目の存在が『保身のための改竄』ではなく『最初から計画の外にいた誰かが巻き込まれた痕跡』かもしれないと考える。そうなると、火災も事故も、どちらも予定外の目撃をどう処理するかの物語になる。
旧校舎は、昼でも夕方の気配を持っている。窓ガラスの向こうに見える中庭は明るいのに、廊下へ入ると急に足音が乾く。三年前の火災とは別件のはずの場所なのに、光一には妙に息苦しかった。事故の日の動線をなぞるように歩き、南側通路の突き当たりで止まる。そこにある非常扉の蝶番だけ、新しい。旧校舎の管理予算が削られていた年に、その箇所だけ部品交換されているのは不自然だった。火災の後処理が、旧校舎側の扉にまで波及していたのだ。
神代玲奈から借りた当日の立入記録には、二重押印の下に薄い鉛筆跡があった。消された時刻だ。澪は紙を傾け、光の加減で数字を読む。十六時四十分。事故とされる時刻より十分ほど前。先に入った誰かと、後から通された誰か。そのどちらかが『三人目』だと考えるのは簡単だ。けれど澪は、その簡単さが嫌だった。誰か一人へ役割を押しつけた瞬間、他の人間の迷いが消える。自分はそういう消し方をされたくないし、他人にもしたくない。だから彼女は、数字を見てもなお決めつけない形を探す。
帰り際、旧校舎一階のガラスケースで、火災以前の避難訓練写真が目に入った。列の後方に、火災当日の写真でも見切れていた腕章の色と同じものがある。学校関係者ではない補助要員が、訓練の時点から校内へ出入りしていたのだ。偶発的に呼ばれた業者ではなく、前から学校とつながっていた人間たち。その認識に辿り着いた時、光一はポケットの中でノートの角を強く握った。三人目を探す話は、もう一人の目撃者探しではない。学校の外から、最初からこの場所へ混ざっていた手を探す話へ変わりつつあった。
帰り道、澪は旧校舎の窓に映る自分たちを一瞬見た。並んで歩いているのに、ガラスの中では少し距離がある。昔の二人なら、その距離のままでも平気だった。片方が先に進み、片方がそれを見ていれば足りたからだ。けれど今は、そのわずかな隙間すら放っておきたくないと思う。自分が先に見たことを、ちゃんと渡したい。そう思うのは、成長というより責任に近かった。
そしてその責任は、たぶん次に名前を呼ぶ時に試される。




