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第2章 第3話 消防団の名前

 黒い表紙のノートから出てきた名字――奥山。

 二人は地域の消防団記録を調べるため、学校の外へ足を延ばした。商店街の先にある古い消防詰所は、昼間でもどこか薄暗い。壁には過去の出動写真、机の上には地域行事の回覧板。そこにいた青年が奥山敬吾だった。


 奥山は二十代半ば。人当たりは柔らかいが、視線だけがよく滑る。質問そのものを避けるというより、どの言葉が自分に不利に働くかを常に計っている顔つきだった。三年前の西棟火災の夜、彼は補助要員として現場にいたという。

「小さな火でしたよ。表向きにはね」

 そう言ったあとで、自分の言葉を少しだけ悔やんだように黙る。その沈黙を、光一はすぐに追い詰めるために使わない。

「じゃあ、表向きじゃない話もある」

「あるかもしれない。けど、俺が軽々しく言う話でもない」

 奥山の言い方は曖昧だ。だが曖昧さの中に、知っている人間の重さがある。


 帰り道、光一は珍しく長く黙っていた。以前なら、相手の曖昧さを突破したくてたまらなかっただろう。今は違う。曖昧なまま残されることそのものに意味があると分かるからだ。

「言えない人には、言えない理由がある」

 ぽつりと漏らした光一の言葉に、澪は横顔を向ける。

「前なら、そこで詰めてた」

「前は、人の言えなさを弱点だと思ってたから」

「今は?」

「傷かもしれないと思う」

 澪は返事をしない。その代わり、少しだけ歩幅を合わせる。こういう沈黙が、今の二人の信頼だ。


 その夜、澪は一人でノートを読み返していて、火災当日の出動時刻に不自然な空白があることへ気づく。学校の通報時刻より、消防団の到着記録の方が早い。あり得ない。つまり火の上がる前に、誰かが火の出る可能性を知っていたことになる。澪の胸に、はっきりした恐れが生まれる。これは事故の隠蔽ではない。事故を予感していた、あるいは利用した誰かがいる。


 翌日、光一たちは奥山から匿名で送られてきたコピーを受け取る。消防団の簡易記録票だ。そこには「学校側立会者二名」とだけ書かれ、氏名欄が白塗りにされていた。二名。そのうち一人は教師だとして、もう一人は誰か。外部業者か、それとも――。


 帰り際、澪は自分のノートを開き、一行だけ書いた。『知ってしまうことは、いつも少し遅い』。その文字は細いのに、妙に強かった。光一とは別の速さで、澪の中でも何かが動き始めていた。

 詰所を出たあと、二人は川沿いの遊歩道を歩いた。春の終わりの風はまだ冷たく、遠くで子どもの声がする。学校の外へ出ると、事件の輪郭も少し変わる。学内なら「先生」や「委員会」の顔をしているものが、外では会社名や地域団体名で現れる。光一はそれが少し怖かった。名前が変わるだけで、責任の形は見えにくくなる。

 澪はその横で、奥山の沈黙の質を考えていた。嘘をついている人の沈黙ではない。口を開けば、自分一人では済まない人の沈黙だ。そういう沈黙に、自分はどう向き合うべきなのか。光一のように「まだ決めない」と保留するのは簡単だ。けれど保留は万能ではない。待っている間にも、誰かは不利益を引き受け続ける。


 夜のメッセージのやり取りで、澪は珍しく長文を打ちかけて消した。『もし本当に知ってる人が皆黙ってるなら、誰が最初に口を開くのが正しいんだろう』。結局送ったのは『明日、神代にも当たる』だけだった。自分の迷いをまだそのまま渡すことはできない。けれど、以前よりはその迷いを自覚している。


 翌日の昼、光一は奥山へもう一度会いに行くか迷ったが、踏みとどまった。相手の沈黙を今すぐ破ることが正しいとは限らない。だから代わりに、地域広報誌のバックナンバーを漁る。そこには三年前の防災訓練写真が載っていて、奥山の背後に点検会社の腕章を付けた男が映っていた。消防団と業者は、その夜だけの接点ではない。日常的につながっていたのだ。


 澪はその写真を見ながら、『知っている人はいつも最初から輪の中にいる』と思う。外から真相へ近づくのではなく、最初から中にいた人たちが少しずつ沈黙する。その構図は、あの合宿ともよく似ていた。

 消防団の名簿だけでは、奥山という名字はただの文字列だった。けれど、その家まで行くと文字はすぐ生活になる。玄関先の泥のついた長靴、軒下に干された軍手、古いポンプ車の写真。奥山は二人を家の中へは入れなかったが、門の前で立ち話をするくらいの時間はくれた。『火災の夜、呼ばれたのは事実だ』と男は言う。ただし、学校からではない。先に連絡をよこしたのは点検会社側の人間だった、と。学校より先に業者が地域へ火を知らせていた。その順番だけで、光一の中の図がひとつ組み替わる。


 帰り道、商店街の端にある古い写真館へ澪が足を止めた。廃業寸前の店内には、色の褪せた集合写真が並んでいる。店主の老女は、西棟火災のあと学校から何枚か追加焼きを頼まれたことがあると覚えていた。『同じ写真を二回焼くのは珍しくないけど、あの時は一人写ってる位置だけ気にしてた』と老女は言う。誰が、と訊いても名前は出てこない。ただ、学校の先生ではなかった、とだけ。外の人間が、写っている誰かの位置を気にしていた。火災の夜を隠したい人間は、学校の外にもいたのだ。


 その日の夜、澪はノートへ自分の考えを整理する。合宿の夜に『頼る』と口にした時の感じを思い出しながら、今回は頼るだけでは足りないと思う。自分で先に考えたことを、光一へ渡さなくてはならない。見えた違和感を、相手が気づくまで待つのではなく、自分の言葉で置く。そう決めてからメッセージを打つと、すぐに既読がついた。『写真館、先生じゃない人が位置を気にしてた』。返ってきたのは一行だけ。『それ、学校の外へ続く線だ』。短い返事なのに、澪は少しだけ肩の力が抜けた。自分の見たものが、ちゃんと事件の形に接続したからだ。


 その晩、光一は合宿の時に使ったメモ帳を開き、倉橋伊吹の写真裏にあった『ひとりで来るな』の文字と、今日の証言メモを見比べた。書いている内容は違うのに、どちらにも『先に起きたことより、起きたあとに何を動かしたか』が残っている。火災も合宿も、傷そのものと同じくらい、傷をどう隠したかで輪郭が決まっている。その共通点に気づいた時、前の事件から続く線が、ようやく一本の手触りを持ち始めた。

 なら次に見るべきなのは、燃えた場所じゃない。

 燃えたあと、最初に動いた人間だ。

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