第2章 第2話 消された見開き
火災当日の校内新聞を探すため、光一と澪は新聞部の古い保管庫へ向かった。
校舎の隅にある狭い部屋には、年度ごとの束と、使われなくなったラベルライターと、湿った紙の匂いが残っている。元新聞部長の及川真奈美は、頼まれる前から二人が来ることを予想していたように、入口で腕を組んで待っていた。
「遅いね」
「待ってたんですか」
「来ると思ったから」
及川はそう言って、鍵を開ける。
保管庫の中で見つかったのは、新聞の完成版ではなく、レイアウト前の見開き台紙だった。西棟火災の記事は確かに載っていた。しかし印刷時には使われなかった赤字のメモが残っている。『設備不良で押し切る』『外部立会いの記述は削除』。削除したのは誰か。新聞部顧問か、上からの指示か。
及川は三年前のことを多くは語らない。ただ、「あの頃から、学校は記録を短くするのがうまかった」とだけ言う。その言い方は、怒りより疲れに近い。光一は、こういう疲れの正体を以前ほど簡単に言葉へしない。言葉にした瞬間、その人の苦しさを一つの説明に閉じ込めてしまう気がするからだ。
一方で澪は、及川の指先を見ていた。新聞の端に触れる時だけ、妙に慎重だ。過去にここで何かを見つけ、何かを失った人の手つきだと分かる。澪は及川の感情を推理の材料としてではなく、同じく「知ってしまった側」のものとして受け取る。その感覚が、彼女をさらに先へ進ませる。
午後、学校では文化委員の掲示作業中に小さな揉め事が起きる。三年前の文化祭写真が、西棟火災の前後だけ不自然に欠落しているのだ。表向きは写真管理の不備。だが、誰かが触れなければ欠けない部分ばかりが抜けている。光一は集まった生徒に向かってすぐ結論を出さない。
「まだ決めない」
今度は、問いに対する返答ではなく、その場の空気を落ち着かせるための言葉として使われた。犯人探しへ一気に傾こうとする流れを止め、まず欠けた時期と欠けた範囲を見ようと提案する。その手つきは、昔の光一が持っていなかったものだ。
澪はその場で、文化委員の一人・柏瀬直人と初めてまともに話す。穏やかで、言葉の選び方が丁寧な男子だった。彼は澪に対し、光一の隣にいるからではなく、澪自身が冷静に全体を見ていることへ目を向けて話す。その視線に、澪は少しだけ戸惑う。光一といる時の自分の距離感は、ほとんど説明が要らない。他人と向き合う時、自分はいつも少し足りないのだと気づかされる。
夜、及川から送られてきた写真データの中に、一枚だけ削除漏れがあった。西棟前で点検会社の腕章を付けた男と、教師らしき人物が口論している写真。顔は半分しか映っていない。だが、その背後のガラスに、旧校舎の管理台帳を抱えた誰かの影がぼんやり映り込んでいた。
火災は事故ではないかもしれない。少なくとも、事故だけではない。そう思わせるだけの材料が、ゆっくりと揃い始めていた。
及川は最後に、保管庫の一番下から古い封筒を出した。中には、三年前の新聞部会議のメモが入っている。議題欄には『火災記事差し替え』とだけあり、決定理由は空白だった。空白は、何も話していないのではなく、話したくなかった時に生まれる。
「あなたたち、どこまで行くつもり?」
及川の問いに、光一はすぐ答えない。代わりに澪が言う。
「行けるところまで、じゃなくて。止まる場所も考えながらです」
及川はその返事を聞いて、少しだけ表情を緩めた。光一だけが変わったのではなく、澪もまた合宿のあとに進んだ位置へ立っている。その確認みたいな瞬間だった。
文化委員の写真欠落の件は、表向きには『整理中の取り違え』で済まされた。だが、その片づけ方自体がもう怪しい。学校は、曖昧な理由で終わらせる時ほど手際がいい。光一はその手際の良さに、久慈原たちが使っていた「小さな答えで満足させるやり方」の残り香を感じる。
夜、澪は柏瀬から借りたペンを返すついでに短く話す。直人は自分の話を長くしない。相手が返しやすい長さで止める。その距離感は心地よいのに、澪はどこかで構えてしまう。自分の気持ちがまだ事件側にあるからだけではない。他人と並ぶ時の温度を、自分はまだ知らないのだ。
新聞部の資料室は、昼でも少し薄暗い。校舎の北側にあるせいだけではなく、古い紙が光を吸うからだ。及川真奈美は埃の浮く棚の前で腕を組み、抜き取られた見開きの位置を指先で軽く叩いた。
「火災の日だけじゃない。差し替えた人、前後の記事も読んでる」
差し替えをするだけなら目的の頁だけ抜けばいい。だがファイルには、火災の翌週に載った小さな訂正欄までない。そこには『当日夜の対応に関する一部記載を修正』とだけあったはずだと、及川は言う。修正の内容は覚えていない。覚えていないのではなく、当時からぼやかされていたのだろうと光一は思った。
資料室を出たあと、澪は一人で校舎裏の外階段に立った。直人から届いた短いメッセージは、返事を急かすような文面ではない。それでも、画面を見ていると胸のどこかがきしむ。相手が悪いわけではない。ただ、自分が相手に返せる温度の形が分からない。光一と話す時には起きない戸惑いが、別の相手にはいちいち発生する。それを恋愛に向いていないと片づけるのは簡単だ。でも、簡単な答えで終わらせたくない気持ちもある。澪はスマホを伏せて、火災資料と自分のことを同じ秤に乗せるような真似だと苦く思った。
夕方、及川から追加で渡されたのは、当時の新聞部で使っていたフィルム接写用のコンタクトシートだった。西棟の記事候補写真が並ぶ中、一コマだけ切り取られている。切り口は古いのに、その周囲へ最近になって指が触れた油の跡がある。抜いたのは昔でも、今もそれを確認しに来る人間がいるということだ。帰り際、資料室の扉が閉まる直前に、誰かの影が廊下を横切った。追いかけても間に合わない程度の速さで、でも偶然の通行にしては足音を消しすぎていた。誰かはまだ、二人を見ている。
翌朝、澪は自分の机へ置かれた無記名の付箋を見つける。『昔の紙を掘ると、今の火もつく』。脅し文句としては回りくどい。だが回りくどいからこそ、学校の外の大人ではなく、校内で事情だけ知っている誰かの手つきに見えた。光一は付箋を見てすぐに犯人探しへ行こうとせず、文字の癖と紙質だけを写真に残す。その裏へひっくり返した瞬間、澪の指が止まった。角に、ごく薄い煤のような黒い汚れがついている。
脅し文句じゃない。あれは、火の近くにいた誰かが触った紙だ。




