第2章 第1話 黒い表紙の一頁目
合宿から戻って最初の月曜、放課後の図書室は静かだった。
閉架書庫の鍵を借りる生徒は少ない。だから、受付台の横に置かれた黒い表紙のノートだけが、妙に場違いに見えた。合宿の終わりに開かれたままになっていたそのノートを、雨宮光一と篠宮澪は並んで見下ろしていた。
西棟の火災。三年前。小規模火災。けが人なし。原因は電気系統の不具合。記載は短い。短すぎる、と光一は思う。記録が短い時は、情報が少ないのではなく、少なくしている場合がある。以前なら、その瞬間に「待ってました」と胸が熱くなっていたかもしれない。今は違う。熱はある。けれど、前より低く、深い場所で燃えている。
「この日の新聞スクラップ、抜けてる」
先に口にしたのは澪だった。新聞ファイルの西棟火災当日の頁だけがきれいに抜かれている。しかも、その前後の頁は古びているのに、抜けた痕だけが新しい。誰かが最近触った跡だ。
「貸出記録は?」
「消し跡がある。名前を消したんじゃなくて、上から別の文字を重ねた感じ」
澪は管理簿をめくり、光一はノートの欄外メモを見る。そこには、火災当日の見取り図と、旧校舎事故の日付に似た数字が細く書き込まれていた。別々の事件として処理されてきたものが、誰かの中では最初からつながっていたのかもしれない。
翌朝、教室ではいつものように杉浦が光一を茶化した。
「で、どう思う。名探偵」
周囲に小さな笑いが広がる。悪意ではない。昔の光一を知っている、というだけの軽口だ。けれど今の光一は、その軽さごと受け止めて、一拍置いてから答えた。
「俺は……まだ決めない」
教室の空気が、一瞬だけ静まる。前なら、そこで誰かが「出た」とはやし立てていた。今は違う。からかい半分だった杉浦が、少し真面目な顔で「そっか」と言う。その変化を、澪は窓際から見ていた。驚きはもうない。けれど、安心とまではまだ言えない。光一が変わったことを、彼女は嬉しく思っている。だが人は、変わったあとにこそ試される。
昼休み、澪は一人で閉架管理簿を洗い直した。そこに残っていたのは教師名ではなく、外部業者名のような痕跡だった。校内事故の記録に、なぜ業者が先に触れているのか。澪の胸の内で違和感が膨らむ。もう彼女は、光一の後ろで答え合わせをするだけの立場じゃない。自分で見つけた引っかかりを、自分の言葉で追いかけ始めていた。
放課後、二人は抜けた新聞記事の代わりに、ファイルへ挟まれていた写真を見つけた。西棟火災の日付なのに、写っているのは旧校舎裏手。端に見切れた腕章には、校外の点検会社のロゴがかすかに残っていた。
「学校の中だけで片づけたかった火事じゃない」
光一はそう言い、すぐに付け加える。
「でも、ここで誰か一人に決めるのは早い」
澪はその言葉を聞いて、小さく息を吐く。変わった。少なくとも、前よりずっとましだ。けれど同時に、自分も変わらなければいけないと思う。見守るだけでは足りない。並んで持つ側へ行くのだと、合宿の夜に決めたのだから。
二人が図書室を出る前、黒い表紙のノートの裏表紙に貼りついた薄い封筒が見つかった。中にあったのは業者名簿の切れ端と、ひとつの名字。奥山。消防団の出動記録にも残っている名前だった。
西棟の火災は、学校の中だけの事件ではない。そう確信するにはまだ材料が足りない。けれど、足を踏み入れるには十分すぎる入口だった。
その夜、光一は自室で、合宿の時に使っていたノートも一緒に机へ並べた。倉橋伊吹の件、去年の部屋割り、焦げたケーブル。あの合宿で出会った、説明されないまま痛みだけが残る記録と、西棟火災の短くされすぎた記録は、手触りがよく似ている。似ているということは、処理の仕方が似ているということだ。誰かが先に「この程度で済む」と決め、そこから先を削った。
スマホに澪から短いメッセージが届く。『閉架の返却期限、明日』。それだけだが、光一は少しだけ笑う。たぶん本当に言いたいのは「一人で先走るな」の方だ。言葉にしなくても分かる。そのうえで、今は必要な言葉はちゃんと届く。そういう関係まで、二人は来ている。
翌日の放課後、二人は西棟へ続く渡り廊下の手前まで足を運んだ。立入禁止の札は三年前のものとは思えないほど新しく、扉の金具だけが周囲と色を違えている。交換されたのだ、と光一は思う。火災そのものより後に、誰かがここへ人を入れないための修理をした。廊下の窓越しに見えるのは、閉ざされた扉と、床に落ちた薄い光だけだ。何も起きていない場所ほど、何かが終わったあとのように見えることがある。澪はその光景を見ながら、合宿の夜に向かった西側倉庫を思い出していた。説明されなかった場所には、いつも人の都合だけがきれいに残る。
「前なら、ここで鍵を探してた?」
澪が訊く。
光一は少し考えてから答えた。
「探してたと思う。たぶん、見つけた時のことしか考えずに」
「今は?」
「開けたあとに誰が困るか、先に考える」
短い会話だったが、澪にはその重さが分かった。変わった、で済ませてしまうには惜しい種類の変化だ。人は痛い目を見れば慎重になる。でも、慎重さが臆病さに変わらず残るには、自分で選び直す時間がいる。光一はそこを、合宿のあとにちゃんと通ってきたのだろう。
その帰り、管理室前の掲示板に貼られた鍵貸出票を澪が止まって見た。西棟の予備鍵欄だけ、使用回数の線が不自然に少ない。立入禁止後に一度も使われていないように見せかけて、紙そのものは最近差し替えられている。澪はその紙の角を指先でなぞり、胸の内で小さく線を引いた。誰かが火災そのものではなく、火災後の管理記録を整え直している。なら、この事件は過去形ではない。まだ現在に触れている。そう考えた時、廊下の向こうから神代玲奈が現れ、二人の前で足を止めた。彼女は西棟の札を見て、何も言わずに視線だけを落とす。その一拍が、次の話の入口になる。
神代は二人を見つけても、すぐには叱らなかった。代わりに西棟の札を見上げたまま、『閉められた場所って、安心のためにあるようでいて、忘れるためにも使えるのよ』とだけ言う。教師の立場の言葉には聞こえなかった。誰かの過去を見送った人の声だ。そのあとでようやく『今日は帰りなさい』と続ける。そこで終わりではなく、少しだけ視線を細めた。『でも次にその前へ立つ時は、見ないふりじゃ済まないわよ』。光一は反発せずうなずく。
言葉を飲み込むことが敗北ではないと、今は知っているからだ。




