合宿編 終章 黒い表紙
合宿の最終日は、驚くほど普通に始まった。
朝食の食堂には焼いたパンの匂いがして、眠そうな顔をした生徒たちが紙コップのオレンジジュースを運んでいる。昨夜まであれだけ張りつめていた空気が、表面だけ見ればもうほとんど剥がれていた。人は何かが収まったと判断すると、驚くくらい早く日常の形に戻ろうとする。
でも、戻ったように見えることと、本当に元に戻ることは違う。
倉橋伊吹と水瀬凪は、向かい合って食事をしていた。昨日までのように視線を逸らし合うでもなく、かといって以前の関係に戻ったふうでもない。間に置かれた沈黙はまだ少し硬い。それでも、互いにその硬さから逃げていないだけで十分だった。
凪のトレイの端には、例のレコーダーが置かれていた。伊吹の手元には、封筒に戻された手紙がある。誰かの言葉を勝手に消さないこと。けれど、誰にでも見せびらかす材料にも変えないこと。昨夜のうちに僕らがたどり着いた線引きを、二人もちゃんと引き受けているのだと分かった。
食堂を出たところで、学年主任に呼び止められた。
「雨宮、篠宮。少しいいか」
職員用の小会議室には、主任のほかに引率の教師が二人と、施設の副所長らしい年配の男がいた。窓は開いているのに、部屋の空気は妙に乾いている。
「昨夜の件だが」
主任は最初から苛立ちを隠さなかった。
「お前たちが間に入ったせいで、結局、誰が何をしたのかが曖昧になっている」
「曖昧にはしていません」
僕は答える。
「部屋割りの変更に個人的な意図があったこと。去年の出来事に関する私物の受け渡しがあったこと。西側倉庫の煙は老朽化した延長タップへの過負荷が原因だったこと。必要な事実は全部伝えています」
「名前を伏せたままだ」
「全員の前で吊るす必要のない名前です」
主任は机を指で叩いた。
「お前は、生徒が自分で線を引いていい問題と悪い問題の区別がついていない」
少し前の僕なら、この言い方に反発したと思う。自分の推理の正しさを証明したくなって、必要以上に言い返したかもしれない。
でも今は、反発より先に考えることができた。
この人は責めたいわけじゃない。責任の所在を明確にしたいのだ。教師としては当然だし、間違ってもいない。ただ、その当然がそのまま誰かの二度目の傷になることがある、と僕は知ってしまった。
「区別はついています」
だから、声を上げずに言う。
「今回は、名前を先に出すと事実より早く感情が走る。昨日までの空気を見ていれば分かるはずです。必要なら個別の事情聴取に立ち会います。けど、全体説明の材料にはしないでください」
教師たちは顔を見合わせた。
そこで、黙っていた施設の副所長が口を開いた。
「昨夜、倉庫の配線も確認しました。建物側の整備不足が大きいのは事実です。去年の件も含め、こちらで過去の記録をもう一度見直します」
主任の表情が少しだけ変わる。学校の中だけの問題として押し切れないと分かったのだろう。
「……分かった」
不承不承、としか言いようのない口調だった。
「ただし、これで終わりだと思うなよ」
「思っていません」
僕がそう答えると、主任はわずかに眉をひそめた。その顔は、反抗された時の顔ではなかった。昨日までと違うものを測りかねている顔だった。
小会議室を出ると、廊下の向こうで澪が待っていた。
「怒られた?」
「かなり」
「でも、折れなかった」
「折るところじゃなかったから」
澪はそれを聞いて、ほんの少しだけ顎を引いた。満足した時のこいつは、大げさに褒めない。その代わり、ちゃんと見ていたことだけは分かる顔をする。
閉校式の前、施設の前庭で自由時間が少しだけあった。
伊吹と凪は、その時間を使って本館裏のベンチに座っていた。僕と澪は少し離れた場所からしか見ていない。見守る、というのはときどき、助けるより難しい。
凪が何かを言い、伊吹が強い口調で返し、それから二人とも同時に黙った。少しして、伊吹が封筒を差し出す。凪は受け取らない。代わりに首を振り、レコーダーだけをテーブルに置いた。伊吹は迷ってから、それを手に取った。
「あれでいいのかな」
僕が言うと、澪はすぐには答えなかった。
「正しいかどうかは、たぶん二人があとで決めること」
「今はまだ決めない、か」
「便利に使わないで」
呆れたように言われて、僕は少し笑う。
「でも、昨日までの僕なら、あそこへ行ってた」
「止めたと思う」
「今は?」
「今は行かないって、先に分かる」
それは褒め言葉として受け取ってよかったのだと思う。
最後に全員で施設の前に並んで写真を撮った。
去年の写真より少しだけぎこちなく、それでも確かに『今年』の顔をした写真だった。誰か一人が欠けたまま笑っている写真ではない。完全に晴れやかではなくても、同じ場所に立つことを選び直した顔だった。
バスに乗り込む直前、杉浦が僕の肩を小突いた。
「結局、合宿でも何か起きたな」
「起きない方がよかったよ」
「そう言うの、前のお前なら絶対言わなかった」
「前の僕は、もういないから」
口にしてから、自分でも少しだけ驚いた。
でも、嘘ではなかった。
帰りのバスは行きより静かだった。疲れて寝ているやつが多いし、昨夜までの騒ぎを何となく引きずっている空気もある。それでも、ときどき誰かの笑い声が上がる。緊張のあとに戻ってくる笑いは、少し弱くて、そのぶん本物に近い。
僕と澪は、行きと同じ席に座った。
山道を下る車窓を見ながら、しばらく言葉はなかった。沈黙が気まずくないのは前からだ。でも今の沈黙は、前のように『言わなくても分かるだろ』で押し切る感じとは少し違う。分からないかもしれないことを、必要なら言葉にしてもいいと思える静けさだった。
「光一」
「なに」
「今回、あなた一回も『待ってました』って言わなかったね」
澪が窓の外を見たまま言う。
「言えなかったんだよ」
「うん」
「でも、考えるのをやめたわけじゃない」
「それも知ってる」
そこで僕は、胸の中で一度ひっかかった言葉を、そのままにせず口へ出した。
「澪」
「なに」
「ごめん」
彼女がこちらを見る。
「前の僕のまま扱われるのが嫌だって、どこかで思ってた。ちゃんと見せる前に、分かってほしいって」
澪は少しだけ目を見開き、それから静かに息を吐いた。
「私も、ごめん」
「何が」
「変わったあなたを見る前に、前のあなたを思い出してた。止める準備ばかりして、隣に立つ準備が少し遅れた」
その言い方が澪らしくて、僕は思わず笑いそうになった。
「準備って」
「大事でしょ」
「大事だな」
「うん」
それから澪は、ほんの少しだけ声をやわらげた。
「ありがとう」
「……何に対して?」
「一人で決めないでくれたこと」
僕はすぐには返事ができなかった。
前なら、自分で解いた、自分で選んだ、とどこかで言いたかっただろう。けれど今回は違う。澪の目、凪の涙、伊吹の怒り、杉浦の軽口、教師の苛立ち、その全部を見た上で、ようやく選べた。
「こっちこそありがとう」
そう言うと、澪は笑わなかった。ただ、肩の力を少し抜いた。
その変化だけで十分だった。
途中のサービスエリアで休憩になった時、伊吹と凪が並んで自販機の前に立っているのが見えた。相変わらず会話の量は多くない。でも、片方だけが追いかけるでも、片方だけが逃げるでもない距離だった。
「ああいうのを見ると、終わったって感じがする?」
僕が訊くと、澪は紙コップのコーヒーを持ったまま首を振った。
「終わったというより、始まった感じ」
「同じこと言おうとした」
「悔しい?」
「ちょっと」
「じゃあ次は先に言えば」
「そういう競争じゃないだろ」
「知ってる」
知っていて言うところまで含めて、少し前の澪よりやわらかかった。
学校へ戻ってから三日後。
合宿の話題は、校内ではすでに別の噂に押され始めていた。定期試験の日程、文化祭の実行委員、吹奏楽部の新入部員、そういう新しい話題が、人の記憶の表面をすぐに塗り替える。
それでも、完全に消えたわけではない。
ラウンジの写真のことを覚えているやつはいるし、三一一の番号を面白がって囁く声もまだ少しはあった。でも、それはもう誰か一人を追い詰める熱には育っていなかった。
昼休み、杉浦が購買のパンをかじりながら言った。
「なあ、結局あれって去年の心霊騒ぎと関係あったの」
以前なら、僕はそこで訂正を急いでいたかもしれない。
でも今回は、問いの形を見てから答えた。
「心霊じゃない。けど、怖がらせるだけの話でもなかった」
「ふーん」
「それで十分だろ」
杉浦は少し考えてから肩をすくめた。
「まあ、お前がそう言うなら」
その言い方の中には、昔みたいな無条件の持ち上げ方とは違うものがあった。たぶん、解答への期待じゃなくて、判断への信頼だ。
放課後の図書室は、雨の前の匂いがした。
窓の外は薄い灰色で、グラウンドの向こうに立つ西棟の古い外壁も、今日はいつもよりくすんで見える。使われなくなって久しい建物は、見慣れているはずなのに、こちらが変わると急に別の輪郭を持ち始める。
僕は、黒い表紙のノートを机に置いた。
合宿の前から、まだ開いていなかったノートだ。学校の外へ続く線。三年前の火災。旧校舎にいた三人目。その全部が、この黒い表紙の向こう側に眠っている。
向かいの席に座った澪が、指先で本の角を整えながら訊く。
「開くの」
「開く」
「今なら?」
「前より少しましな順番で見られる気がする」
僕はそこで一度言葉を切り、澪を見る。
「あと、一人で読まない」
澪の手が止まった。
「それ、頼ってるってこと?」
「信頼してるってこと」
少しだけ間を置いてから言うと、澪は視線を伏せたまま小さく息をついた。
「そういうの、急に真面目に言うのやめて」
「嫌か」
「嫌じゃない」
その答えで十分だった。
表紙をめくる。
最初のページに挟まっていたのは、古い新聞の切り抜きだった。紙の端は茶色く変色している。見出しは短い。
市立青葉高校 西棟で小規模火災
記事は数行で終わっていた。夜間、電気系統の不具合による小規模な火災。けが人なし。迅速な初期対応により延焼なし。そう書かれている。
短すぎる、と思った。
三年前の学校内火災にしては、片づきがよすぎる。
その下に、手書きで一行だけメモがあった。
あの日旧校舎にいた三人目は 火の前にもそこにいた
背筋が静かに冷える。
ノートの次のページには、西棟と旧校舎を線で結んだ粗い見取り図があった。さらに次のページには、時刻だけが並んでいる。二十時十分。二十時二十七分。二十時三十一分。名前はまだない。けれど、名前が書かれていないからこそ、そこに誰かの意図があると分かる。
「三人目……」
澪が低く呟く。
「旧校舎の件だけじゃなくて、火災の前からそこにいた」
「つまり、偶然居合わせたんじゃない」
言葉にした瞬間、点と点の間に、まだ線とは呼べない影が生まれる。
三年前の火災。旧校舎。学校の外へ続く線。合宿で見た、整理されてしまった記録。消されかけた名前。誰かを守るための沈黙と、都合のための沈黙。その区別を、今度はもっと大きな場所で見極めなければならない。
でも、急げばまた見落とす。
僕はノートのページに指を置いたまま、ゆっくり息を吸った。
「どう思う、名探偵」
澪が、少しだけからかうように言った。
その目は、でもちゃんと本気だった。
僕は口元をわずかに上げる。
「俺は……まだ決めない」
澪がほんの少しだけ笑う。
その表情を見てから、僕は次のページをめくった。
前の僕は、もういない。その代わりに、間違えることを知ったまま、誰かの痛みを見落とさないように進もうとする僕がいる。たぶん、それが再生ということなのだと思う。
黒い表紙の向こうには、まだ知らない名前が眠っている。三年前の火災。旧校舎にいた三人目。そして、学校の外へ続く線。
合宿で手に入れたのは、答えじゃない。答えへ近づくための選び方だった。だから今度は、間違えないようにではなく、間違えた時に立ち止まれるように進む。その静かな熱は、あの日の山の上より、今の方が少し強く灯っていた。
そして、次の謎はもう始まっている。




