合宿編 第八章 灯ったもの
西側倉庫の前には、昨夜よりはっきりと煙が出ていた。
白いというより灰色に近い、電気の焼ける煙だ。扉は半開きで、中から断続的に火花の音がする。古い除湿機か、暖房器具のコードがショートしたのだろう。大きな火ではない。だが、放っておけば燃え移る。
「凪!」
僕が叫ぶと、倉庫の中から、短い咳き込みが返った。
凪は奥にいた。
棚の前にしゃがみ込み、何かを探している。いや、探しているというより、手を伸ばしたまま動けなくなっている。煙で視界が悪い。澪がすぐに口元を押さえ、僕の腕を掴んだ。
「光一、無理に入らないで」
「でも」
「見て。右側のコンセント」
懐中電灯の光を向けると、壁際の古い延長タップから火花が散っていた。そこにつながっているのは、使われていないはずの小型ヒーターと充電器。誰かが昨夜、ここでレコーダーを充電しようとしたのだと分かる。
「ブレーカー」
澪が言う。
「外にある」
「行けるか」
「行く」
彼女は僕の返事を待たずに走った。
僕は上着を口元に当てて、倉庫へ飛び込んだ。
熱さはまだ強くない。だが煙が目にしみる。凪は棚の前で立ち尽くしたままだった。
「何してる!」
「……ノートが」
凪は掠れた声で言う。
「姉のノートが、ここにまだあるって思って」
そんなものが今ここにあるかどうかは分からない。
でも、彼女にとっては『あるかもしれない』だけで十分だったのだ。去年から置き去りにされたものを、今度こそ自分の手で片づけないといけないと思ってしまった。その気持ちは、痛いほど分かる。
「今は出る」
僕は凪の手首を掴む。
「でも」
「今ここで何か一つ拾っても、あなたまで倒れたら終わりだ」
その時、外で金属の音がして、火花が止まった。
澪がブレーカーを落としたのだ。暗い。煙だけが残る。僕は凪を引っ張って外へ出た。
冷たい空気が喉に刺さる。
凪は咳き込みながら膝をついた。澪がすぐ横にしゃがむ。
「大丈夫」
「……ごめん」
「そういうのは後」
澪の声は厳しいが、手つきは優しかった。
教師たちも遅れて駆けつけてくる。施設職員が消火器を持って入り、倉庫の安全確認が始まる。その隙に、伊吹も人の流れを抜けてここへ来ていた。
「凪!」
伊吹は駆け寄り、地面に膝をついた。
「何やってるの」
「ごめん……」
凪はそれしか言えない。
伊吹は怒鳴り返す代わりに、ただ息を荒くしていた。怒りと恐怖が一緒に来た時、人は案外きれいな言葉を失う。
騒ぎがいったん収まり、教師が周囲の生徒を本館へ戻し始めたところで、澪が僕に目配せした。
今しかない。
ここで終わらせる。誰も置き去りにしない形で。
「先生」
僕は学年主任に声をかけた。
「少し時間をください。昨夜からの件、僕が説明します」
「今さら何を――」
「今なら、間違えずに済みます」
自分でも不思議なくらい、声は落ち着いていた。
学年主任は嫌そうな顔をしたが、施設職員とのやり取りもあって余裕がない。結局、「五分だ」とだけ言った。
僕は倉庫の脇のベンチへ、伊吹と凪、それから澪を呼んだ。
教師たちからは少し離れているが、完全には見えない距離ではない。密室にしないための位置だ。
「凪」
僕は最初に言った。
「もう隠さなくていい。でも、全部を人前に出す必要もない」
凪は顔を上げる。
「そんな都合のいいことある?」
「あるようにする」
「どうやって」
「必要な人にだけ、正しい形で渡す」
伊吹が、まだ震える声で言う。
「……私、手紙、読みました」
彼女の手には、少し折れた茶封筒が握られていた。
「姉は、紗由先輩を責めてなかった。あの夜、あそこで消したかったのは『火』じゃなくて、『誰かが消えようとすること』だったって」
凪が泣きそうな顔になる。
伊吹は続ける。
「でも、黙ったまま終わったことが正しかったとも書いてない。『もしあなたが同じ場所に来たなら、その時は自分で選んでほしい』って」
風が吹く。
煙の薄い匂いが、まだ少し残っている。
「私ね」
伊吹は凪を見る。
「姉が悪いことをしたんじゃないかって、ずっと怖かった。だから今日ここまで来た。でも、もっと嫌だったのは、何も知らないまま姉のことを考え続けることだった」
そこで、彼女は一度大きく息を吸った。
「だから、教えてくれてありがとう」
凪の目から、ついに涙が落ちた。
「……でも、私」
「その代わり」
伊吹は言葉を継いだ。
「やり方は最悪。ほんとに最悪」
それは少しだけ、救いのある怒り方だった。
凪は泣きながら笑うみたいな顔になる。
「うん。ごめん」
「あとでちゃんと怒る」
「うん」
そのやり取りを見ながら、僕はようやく肩の力が抜けるのを感じた。
真相は、人を救う形で届いた時に初めて意味を持つ。その当たり前のことを、僕は今まで何度も見落としていたのだと思う。
学年主任がしびれを切らしたように近づいてきた。
「時間だ。結局どういうことなんだ」
僕は立ち上がる。
「今年の騒ぎの直接のきっかけは、部屋割りの変更と、昨夜の無断外出です。部屋割りは、去年ここで起きた出来事に関係のある私物を返すために、個人的な判断でいじられた」
学年主任の目が細くなる。
「誰が」
その問いに対して、僕は首を振った。
「そこは個人への事情聴取にしてください。ここで全員の前で名前を出す必要はありません」
「必要はある」
「ありません」
自分でも驚くほど、きっぱりと言えた。
「必要なのは、去年の曖昧な噂をここで終わらせることです。火事ではなかった。誰か一人が面白半分で広めた話でもない。助けようとした人と、助けられた人がいて、そのあと大人の都合で整理されただけです」
教師たちは顔を見合わせた。
『整理された』という言い方に、何人かは明らかに反応した。
「倉庫の煙は?」
施設職員が口を挟む。
「古い延長タップに無理な充電器を挿したことが原因です。昨夜の配電盤も合わせて、建物の老朽化が大きい」
澪が事実だけを補足する。
「つまり、去年も今年も、噂の方が先に大きくなった」
それで十分だった。
完全な勝利でも、鮮やかな謎解きでもない。でも、この場で必要な程度には順番を戻せた。
少なくとも、誰か一人を皆の前へ引きずり出して終わる形だけは避けられた。
解散後。
人の流れが戻り始めた頃、澪が隣に来た。
「さっきの、ちゃんと言えてた」
「何が」
「名前を守ることと、事実を消すことは違うって」
僕は少し笑った。
「前の僕なら、言えなかった?」
「言えても、意味が違った」
「厳しいな」
「正確」
そう言ってから、澪は少しだけ視線を伏せた。
「光一」
「ん」
「昨日の夜、私、あなたを止めるつもりでいた。でも今日は、止めなくてよかった」
「それ、信頼ってやつ?」
「たぶん」
「依存じゃなくて?」
わざと軽く言うと、澪は呆れたように僕を見る。
「そこを自分から確認する?」
「大事だろ」
「大事だね」
澪は一拍おいてから、静かに言った。
「ごめん。前までのあなたを、少し引きずって見てた」
その言葉は、思っていたより深く胸に落ちた。
「……僕も、ごめん」
「何が」
「変わったって、ちゃんと見せる前に分かってほしいって、どこかで思ってた」
澪は少しだけ目を見開き、それから本当にわずかに笑った。
「面倒」
「知ってる」
「でも」
そこで彼女は声をやわらげる。
「ありがとう。ちゃんと変わってくれて」
その『ありがとう』は、今まででいちばんまっすぐだった。
夜、就寝前の見回りが終わったあと。
杉浦が小声で僕に言った。
「で、今日のあれ、結局どう思う。名探偵」
半分はいつものからかいだ。でも、もう半分は違った。僕の返事を待つ顔をしている。
僕は少しだけ考えてから、ベッドに腰を下ろしたまま答えた。
「俺は……まだ決めない」
杉浦が目を丸くする。
「まだ?」
「まだ。急いで決めると、見落とすから」
「なんか前より面倒くさい名探偵になったな」
「そうかもな」
そう言うと、杉浦は笑った。
その笑い方は、嫌いじゃなかった。
窓の外では、雲の切れ間から少しだけ星が見えていた。
大きな事件が終わったわけじゃない。むしろ、終わり方を選び直しただけだ。
でも、その選び直しこそが、前の僕にはなかったものなのだと思えた。




