0-8.まじない
「ぁあ……ッ、ああ゛!ああ゛あ゛ッ!!あづい゛ッ!あづづあ、いい゛いぃ゛あ゛ァ!!」
意識すれば、自覚はあっという間だった。
飲み込んだ血が入り込んだ箇所から激しい痛みが少年を襲う。それは酷い腹痛に似ていて、かと思えば炎に炙られた痛みにも近かった。だが痛みが何たるかを意識すれば少年の意識は途絶え、そして痛みによって起こされる。短い気絶を何度と繰り返す。
齢十六。十六年の決して長いとは言えない人生の中で少年は死を感じたことはなかった。田畑の一部が枯れたり、老いた家畜を屠った一部を見たことはある。鍛冶屋の老人が亡くなった時、他人であれど悲しくて涙が出そうだった。墓場に何度か通ったりもした。
でも、そんなものだ。生きていれば一度はまあ出会うであろう経験と場面しか遭遇したことがない。それだけ平凡で映えのない、埋もれるような生き方をしていた。
「だづえでッ!だづっ、う゛ゥウ゛……ッ!」
しかし、少年は確信する。自分は今、死に近づいている。この痛み、この苦しさに頭ではなく本能が脳に訴える感覚、これが死に通ずるものなのだ。
少年の訴えを覆し、皮膚を破かんばかりに体内であらゆる臓器が暴れているような気さえした。しかも心臓が異様な動きで鼓動を叩き、膨張し続ける。このままだと臓器を吐き出してしまう。このままじゃあ、溺れるより前に破裂して死んでしまう。
「すごーい獣の悲鳴みたーい。ねえ、どこが辛いのぉ?肺?心臓?頭?それともお腹かなぁ?」
魔女は一切の表情を変えず少年を見下ろし続ける。彼女の長い髪が背中から垂れ下がり、血だらけの少年は美しいカーテンに包まれた。
血と汗と焦げた臭いに混じって花の匂いが少年の血に詰まった鼻を撫でる。彼女の笑顔は彼にとって嬉しいものだった。こうして笑いかけてくれることに喜び、少しだけ胸がときめいていた。
しかし今は少年にとってはそんなどころではなく、しきりに喉を振り切って叫び続ける。
「死にそうだねえ。でもここを頑張ったら生きられるよ!頑張って!」
何を言っているんだろう。どうして笑っていられるんだろう。少年は目の前の友達が分からなかった。いやそもそも、分かっていたわけではなかったのだ。
少年の知るメリアルという少女は聡明だった。孤児であるのに両親のいる少年よりも文字が読めた。小さな子供の世話も上手く、料理もできた。洗濯は少々苦手だったがそれでも随分器用な印象だった。
それから、よく笑う子でもあった。町では珍しい金髪と合わさって彼女に見惚れた男は多かっただろう。少年も少なからず友情の底ではそんな想いがあったかもしれない。
「ガッ、ァあ゛……ッ、ひぐ、ゔゔ……っ」
血に混ざって涙が落ちる。細い水足が血の中に溶けていく。少年はメリアルとすごした記憶も一緒になって溶けていく気がした。
「ごぇ……っざい……、ぉ゛、……ヒュー……」
孤児院を揺らしていた暴れん坊の足も次第に寝そべるようになり、喉は自分の血だか彼女の血だかでまともな声を出せる力はもうなかった。嗚咽を漏らし泡を破裂させても、彼女は未だに少年の口の中へ肉をちぎっては放りこんでいる。
呼吸が乏しくなる。徐々に意識が消えていく。近づいてきた死がもうそこに居て自分を覗き込んでいる。
それでも少年の意識の中に両親の顔は、ひとつも浮かんでこなかった。
「あれ?……うそ、まさか死んじゃうの?」
魔女は大人しくなっていく少年に驚いて、手で目に被っていた血を拭う。すると、白濁とした目が天井を見るばかりで動いていなかった。次に口を開けてみる。半開きで脱力したそれを開けるのは容易だった。が、舌は硬直しており口内も喉奥も焼けただれている。飲み込めなかった肉片が残っている。どう見ても、回復している様子はなかった。
「あれ?あれ……?おかしいな、この子はできると思ったのに……おかしいな……」
期待不足、だったのか?魔女は首を傾げる。
しかし血をたらふくと飲んだ人間はどうにもならない。今更抜いたところで既に彼自身の血と混ざっているだろう。それがどちらに転ぶかは人間次第だったのだが、悪い方にいくとは予想外だった。
「ねーえ。ねえっ。もう死んだの?」
試しに胸に手を当ててみる。僅かだが鼓動がする。が、思ったよりもか弱い音だ。死んではなさそうだが生きてるかも怪しそうだった。
そんなに血を飲ませただろうか。人間はどれだけの呼吸があれば生きられたか。今更頭を悩ませるがもうさんざんと浴びせてしまった手前、どれもが本当に今更だった。
「……あ!そうだった、そうだった!私ったらすっかり忘れてたわ。仕方ない、だって久しぶりだったもの!そうね、契約をしなきゃね!」
良い案が出ず肩を落とす彼女だったが、あることを思い出すとぱっと顔に花を咲かせる。それから魔女はえぐれた腕を少年から離し反対の腕を向けた。
「大丈夫よ。失敗するはずない、約束したもの。あなたなら、きっと私も、お母様のことも分かってくれる……」
一度息を飲み、発音せず口と舌を動かす。それは彼女が待ち望んでいた約束の糸だ。
糸は彼女の口ずさみに合わせて魔法を編んでいく。次第に彼女と少年を中心に黒い円が描かれ、間に文字が浮かぶ。外縁から魔法陣が縫われていくのに合わせ、光は強くなり煌々と血を照らした。
「”わたしはあなたと手を握ろう。けれど、あなたはわたしの手を……”」
魔法陣が少年の背中、つまり中心まで到達すると同じ文字が少年の肌に浸透していく。魔女は最後に結び目の言葉を呟こうとした。
しかし、言葉は寸前で断ち切られる。原因は鋏でも針でもない。
扉を破壊する、爆風だ。
「ッ……なに!?」
扉の破片が頬を掠め血を垂らす。だがそんな矮小な痛みに目もくれず魔女は扉の先を睨んだ。
破壊されたことで入ってきた大量の煙と砂埃に姿らしい影や形は見えなかった。
しかし魔女は黒い槍を現し握りしめる。
見えないものの、感じる気配に嫌な覚えがあった。
「……失礼する。こちらに無礼講があると聞いて景気づけにコルクの付いたワインを、と思ったんだが」
煙の中、聞こえた声に魔女は口を歪ませ手にあった槍を思い切りに投げる。
「生憎、鉛玉しかなくてね。受け取ってくれるかな。”悪手の魔女”」
が、煙に届く前にそれは撃ち落とされ塵と化していく。
その衝撃か、あるいは煙さえもついに恐れて裸足で逃げ出したか。一目散に盲目な景色は晴れていった。
魔女は捉える。孤児院にぽっかりと空いた入り口には、黒い装束が数人立ち並んでいた。どれもこれも見つめてきて鬱陶しかったがその中で一番腹立たしいと感じたのは、
「ブレイマー……ッ!」
銀の光を向ける碧い瞳だった。




