第三章 『記録開始』
北元2026年4月1日、午前9時00分。
喰日市北区、和平街十五巷。
喫茶店の前で、ジェレは数人の警察官と向かい合っていた。
「せやから、あの人はほんまに、あのコーヒーを飲んでへんのや……」
ジェレがそう訴えても、警察官は聞く耳を持たなかった。
「では、なぜそのコーヒーカップがなくなったんです?」
「それは……」
ジェレは何とか弁解しようとする。
だが。
自分が無実だと証明できる証拠は、何一つなかった。
「俺……」
言葉が続かない。
その様子を見た別の警察官が、呆れたように口を開く。
「正直に言わせてもらいますけど、別に我々も、あなたを無理に犯人にしたいわけじゃないんですよ。ただ……あなたの態度が、どうにも怪しいんです」
その瞬間。
ジェレの脳裏に、一人の男の姿が浮かんだ。
かつて。
身に覚えのない罪を着せられ。
冤罪によって、銃殺された。
自分の父親。
「……俺の態度が、怪しい?」
警察官は、ジェレの表情など気にも留めずに言葉を続ける。
「例えば、あのカップがどこへ行ったのか。あなたは説明できない。もし本当に無実なら、どうして説明できないんです?」
別の警察官も続けた。
「それに監視カメラの映像です。あなたが映っていない……いや、正確に言えば、あなたがコーヒーを運んだあとからの映像が、まるごと残っていないんです。店長の話では、あなたには監視カメラの撮影時間を調整する権限がある。しかも、あなたは死者と最後に接触した人物だ……」
ジェレの頭の中が、怒りと無力感で満たされていく。
自分は無実だ。
それだけは分かっている。
なのに。
目の前に並べられた証拠は、どれもこれも自分を指し示している。
まるで。
最初から逃げ道など、どこにも存在しなかったかのように。
そして――
あるいは、その感情が引き金になったのか。
ジェレの中で。
これまで使うことのできなかった力が、目を覚ました。
突然。
ジェレの両足に、緑色の紋様が浮かび上がる。
光が走った。
次の瞬間。
ズンッ――!
そこにいた警察官たち全員が、まるで見えない巨大な力に押し潰されたかのように、地面へ叩き伏せられた。
「な……何が……起きて……」
武器を抜くことすらできず、路面に倒れ伏した警察官たち。
その言葉は。
同時に。
ジェレ自身の胸の内に浮かんだ言葉でもあった。
「……なんや、これ……」
だが。
一つだけ、ジェレには分かっていた。
自分の足に刻まれた、緑色の紋様。
そこから溢れ出している光。
「これ……俺の力なんか?」
ジェレは自分の両足を見つめる。
ほんの一瞬だけ、迷った。
そして。
次の瞬間には、空へ向かって跳んでいた。
——
北元2026年4月1日、午前9時10分。
語歆とクィセルスが現場へ到着したとき。
二人の目に飛び込んできたのは、見るも無残な光景だった。
数人の警察官が壁にもたれかかりながら荒い息を吐いている。
別の者は地面に座り込み。
また別の者は、膝に手をつきながら、どうにか立ち上がろうとしていた。
誰も彼も顔色が悪い。
現場には、爆発が起きたような痕跡はない。
それなのに。
そこにはまるで、想定を遥かに超える何者かによって、一方的に制圧されたような空気だけが残っていた。
その光景を見渡したクィセルスが、にこやかな顔で口を開く。
「まあ……えらいことになってはりますなぁ。ここ、ロキの『特別軍事作戦』にでも巻き込まれはったんどすか?」
語歆は倒れている警察官たちへ視線を向ける。
まだ意識がある者が大半だ。
それを確認すると。
淡々と答えた。
「そこまで慈悲深ないで」
クィセルスは、くすりと笑った。
「まあ……そうどすなぁ」
そのときだった。
一人の警察官が、二人のもとへ歩いてきた。
足取りは覚束ない。
それでも、口調だけは職務上のものを崩さない。
「すみません。現在この辺りは危険ですので、申し訳ありませんが、周囲の皆さんは解散して現場から離れてくださいね」
どうやら彼の意識は、二人を疑うことよりも、周囲の人々を安全な場所へ避難させることに向いているらしい。
だが。
その警察官が近づいてきた瞬間。
クィセルスは、ほんの一歩だけ後ろへ下がった。
語歆は、それを見逃さなかった。
「……大丈夫か?」
クィセルスは、小さく首を横に振る。
それ以上、語歆は何も聞かなかった。
代わりに、警察官へ声をかける。
「すんません。俺、友達を探しに来たんです」
予想外の返答だったのだろう。
警察官は、一瞬だけ目を瞬かせる。
「……友達?」
そこへ。
別の警察官が後ろから歩いてきた。
「どうした?」
先ほどの警察官が答える。
「この人、友達を探しに来たそうです」
後から来た警察官が、語歆へ視線を向ける。
「友達の名前は?」
語歆は迷わなかった。
「ジェレ・スノーマンです」
その名前が口にされた瞬間。
先ほどまで周囲の避難誘導をしていた警察官の表情が、明らかに変わった。
「……」
次の瞬間。
後から来た警察官が、片手を上げる。
落ち着け。
そう言うかのように、先ほどの警察官を制した。
そして、改めて語歆を見る。
「……ジェレ、で間違いないんですね?」
語歆は即答した。
「せや」
それから、周囲を見渡す。
そして尋ねた。
「ここで、何があったんです?」
警察官は一瞬だけ黙った。
やがて。
少し迷うように口を開く。
「話せば長くなります。場所を変えて、そこで説明しましょう」
そう言って、警察官は振り返った。
「ウェイド。ここは任せる」
その後ろにいた警察官が、すぐに答えた。
「了解しました」
ウェイドと呼ばれた警察官が、現場の指揮を引き継ぐ。
そして。
先ほどの警察官は二人へ振り返り、ついてくるよう手で示した。
その先にあるのは、近くの建物の外側に設けられた空中歩道の踏み台だった。
「上、歩けますか?」
語歆は隣にいるクィセルスへ視線を向ける。
クィセルスは小さく頷いた。
「ええどす」
三人はそのまま、建物と建物の間に設けられた踏み台へ足を掛ける。
そして。
あっという間に現場を離れ。
近くの警察局へ向かって移動を始めた。
——
北元2026年4月1日、午前9時30分。
喰日市東区警察局、取調室。
明るい照明。
その中央に置かれた一枚の机が、部屋を自然に二つへ分けている。
その向こう側に、一人の警察官。
そして。
語歆とクィセルスが向かい合って座っていた。
空気は、決して張り詰めてはいない。
最初に口を開いたのは、先ほどの警察官だった。
「俺はジェイソン。この警察局の局長です。さっき君たちが話していた人物について聞きたい。彼のことを、どこまで知っていますか?」
クィセルスの身体が、わずかに強張った。
すぐには答えない。
それを見たジェイソンは、穏やかな声で続ける。
「そんなに緊張しなくていい。取調室の録画は最初から最後まで作動しているし、映像はリアルタイムで公式システムにも送られる。今回の質問も、あくまで基本的な手続きです」
語歆は頷いた。
「その前に、一つ聞かせてもらってええですか。さっき、あそこで何があったんです?」
ジェイソンは、少しだけ笑った。
「ああ、そうだった。先に説明しておくべきでしたね。簡単に言えば、君の友人が殺人事件に関わっている。その後、警察が現場を制圧しようとした際に警察官へ暴行を加え、そのまま逃走した。そういう状況です」
語歆は一瞬、言葉を失った。
「……あいつが、人を殺した?」
ジェイソンは相変わらず落ち着いた口調で答える。
「現時点で分かっているのは、彼が死者と最後に接触した人物だということ。そして、その後に警察官へ暴行した事実がある。だから今のところ、我々としては彼を重大な容疑者として扱わざるを得ない」
語歆は一度俯いた。
そして。
「……あいつ、どうやって警察を襲ったんです?」
ジェイソンは首を横に振る。
「分からない。現場の警察官からの報告によれば、彼らが状況を認識したときには、すでにジェレは逃走していた。そして、警察官たちは全員地面に倒れていた。何が起きたのか、誰にも見えていないんです」
語歆はしばらく黙って考えた。
そして。
過去にジェレから聞いた話を思い出す。
父親が冤罪を着せられ、銃殺されたこと。
あのときの話を。
「……俺、たぶん分かります。あいつが、なんで警察を襲ったのか」
語歆が続きを話そうとした、そのとき。
クィセルスが手を伸ばした。
そして、語歆の肩をそっと叩く。
「語歆……」
その声は、止めようとする声だった。
語歆には分かっていた。
彼女が何を恐れているのか。
だが。
振り返らない。
そのまま言葉を続けた。
「分かっとる。あの話をするんが怖いんやろ。でも、今ここで言わんかったら……兄はんを助けられへんで」
クィセルスは、しばらく黙っていた。
やがて。
ゆっくりと顔を上げる。
その瞳から、迷いが少しずつ消えていく。
「……それやったら、うちから話させてもらいますえ」
ジェイソンは驚いたようにクィセルスを見る。
「君は、ジェレの……?」
クィセルスは深く息を吸った。
「うち、あの人の妹どす……警官はん。これから話すんは、うちと兄はんが一緒に経験したことどす」
ジェイソンは優しく答えた。
「……話してください」
クィセルスは、自分を落ち着かせようとする。
だが。
身体の震えは止まらなかった。
そのとき。
一つの手が。
そっと、震えている彼女の手を握った。
「大丈夫や」
語歆の声。
その声を聞いた瞬間。
クィセルスの呼吸が、ようやく落ち着きを取り戻した。
彼女は顔を上げる。
そして。
静かに問いかけた。
「……喰月市で起きた惨劇を、知ってはりますか?」
ジェイソンは一瞬、目を見開いた。
そして。
何かに気づいたような表情を浮かべる。
「……ああ。君たちの知り合いが、黒警に殺されたっていう……?」
クィセルスは首を横に振った。
「……知り合いやおへん」
一拍。
「うちらの父親どす」
ジェイソンの表情が、僅かに変わる。
クィセルスは、もう一度深く息を吸った。
そして。
震える声で、しかしはっきりと言った。
「父は、黒警に罪を着せられて……死刑を宣告され、そのまま銃殺されました」
そして。
クィセルスはゆっくりと語り始める。
あの――
「喰月市の惨劇」を。




