第二章 『門閾之間』
——時間は、半時間ほど前へと遡る。
喰日市にある、芬里爾軍事大学。
その校内の一室には、張り詰めた空気が漂っていた。
重厚な机の向こう側に、一人の大柄な軍服姿の男が座っている。
鋭い眼差し。
その視線の先にいるのは、机を挟んで向かいに座る一人の青年だった。
男は、静かに口を開く。
「申し訳ないが、君を採用することはできない。語歆・賽恩斯……」
語歆は一瞬、呆気に取られた。
そして、顔を上げる。
「……理由、聞いてもええですか?」
男は間を置かなかった。
淡々と、それでいて妙に歯切れのいい口調で答える。
「君の戦闘記録は、すべて確認した」
語歆は困惑したように眉を寄せる。
「……つまり、俺の実力が足りへん、っちゅうことですか?」
男は首を横に振った。
「いや。賽恩斯、君の実力は十分すぎるくらいだ。もし俺が南方のどこかの国にある解放軍の面接官だったなら、今この場で入隊を認めている」
「ほんなら、なんで……」
語歆が言い終えるより早く、男は一枚の書類を机の上から滑らせた。
そして、語歆の目の前へと置く。
「理由は簡単だ。我々は、『侵略』を『解放』と呼んでいる連中とは違う。まずはこの記録を見てくれ。……問題がどこにあるのか、自分で考えてみろ」
語歆は書類を手に取った。
そこに記されていたのは、以前、彼が一人の狙撃手と交戦した際の詳細な記録だった。
最初に殺気を察知し、刀を振るって銃弾を斬り落としたこと。
相手の気配に生じた僅かな隙を捉え、建物の外へ飛び出したこと。
そして、敵の位置を特定し、建物から建物へと渡りながら、真正面から敵と対峙したこと。
さらに、その途中で放った斬撃によって電柱を斬り倒し、最終的に敵を制圧するまでの一部始終。
語歆は、一枚。
また一枚と、書類を読み進めていく。
だが。
読み終える頃には、その眉間に刻まれた皺は、ますます深くなっていた。
その様子を見ていた男が、ふっと口元を上げる。
そして語歆を指差した。
「君が次に言うことは、『どこが問題なのか分からない』だ」
ほとんど同時だった。
語歆の口から、その言葉が飛び出す。
「……俺には、どこが問題なんか分からへん」
言ってから。
語歆は、ようやく気づいた。
「…………あんた…………今…………何言うたん……?」
男は、僅かに上がっていた口元を戻した。
そして、低く落ち着いた声で告げる。
「それが、我々が君を採用できない理由だ」
語歆は書類を男の前へ戻す。
それでも、納得できない。
「……まだ、よう分からへん」
男は書類を受け取りながら、もう一度問いかけた。
「では聞こう。あの電柱は、あの戦闘において『どうしても斬らなければならなかった標的』だったか?」
語歆はしばらく考えた。
そして。
「……ちゃいます」
男は書類を手元へ引き戻す。
「そうだな。あの電柱は斬られたあと、近くの地面へ突き刺さった。……もし、そこに人がいたらどうなっていたと思う?」
語歆は答えなかった。
ただ、黙って男の言葉を聞いていた。
ようやく。
男が何を言おうとしているのか、理解したからだ。
男は語歆の反応を見ながら、続ける。
「我々が行動する目的は、市民を守ることだ。行動そのものに無辜の人間を傷つける可能性があるのなら……我々と、自分たちは『解放』を行っていると口にする連中との違いは、いったいどこにある?」
語歆には分かっていた。
あの戦いで、自分はあまりにも後先を考えていなかった。
動く前に、その先で何が起こるのかなど考えず。
ただ、敵を倒すことだけを考えていた。
そして男は、しばしの沈黙を挟んだ。
その視線が、先ほどよりも鋭くなる。
「それに――君は、本気で我々に入りたいと思っているわけじゃないだろう?」
語歆の目が、大きく見開かれた。
まさか。
自分自身ですら整理できていない迷いを、この男は一目で見抜いたのか。
それでも。
分かったところで、他に進む道があるわけでもない。
ならば。
今は、歩けるところまで歩くしかない。
語歆はゆっくりと立ち上がった。
そして男へ一礼する。
「今日は面接の時間、作ってくれて……ありがとうございました」
男はそんな語歆を見つめる。
その表情が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
「また機会があれば、会おう。賽恩斯」
——
オフィスを出た語歆は、そのまま校門へ向かって歩いていた。
その時だった。
校舎脇にある銅像の陰から、一人の少女が姿を現した。
短い髪。
中性的な雰囲気。
そして、見慣れた笑顔。
少女は、どこか茶目っ気のある口調で尋ねる。
「結果、どないやったん?」
語歆は彼女を見る。
憂いを帯びながらも、どこか嬉しそうな表情を浮かべた。
「落ちたわ……クィセルス」
クィセルスは、その瞬間に笑顔を消した。
「……堪忍え」
語歆は慌てて手を振る。
「ええって。思てたほど落ち込んでへんし。ただ、ちょっと気づかされたことがあっただけや……ほな、ジェレのとこ行こか」
クィセルスはしばらく黙っていた。
やがて後ろにある銅像へ視線を向ける。
「そういえば、この銅像……解放軍を創立しはった、あの――ジェデ・チラルはんやろ?」
そう。クィセルスは、先ほどの失言を誤魔化すため、別の話題を持ち出したのだ。
語歆はそれに気づいていた。
だが、あえて指摘することはしなかった。
そのまま話に乗る。
「せやな。あの人や」
語歆も振り返り、銅像を一瞥する。
「聞いた話やと、解放軍は、自分の政策のせいで犠牲になった人らを償うために、あの人が作ったらしいで」
クィセルスは、すぐさま言葉を返した。
「少なくとも、問題を全部、人のせいにはしはらへんかった。革命を起こしたあと、軍閥に国を任せてしもた、どこぞの誰かさんより、ずっとましやわ」
そして。
少し慌てたように言葉を続ける。
「せやから、あんたが落ちたかて、今まで頑張って鍛えてきたことまで無駄になるわけやないえ」
語歆は、ほっとしたように微笑んだ。
「ありがとな。……まあ、君の言うてることと俺の今回の件が、どう繋がっとるんかは分からへんけどな」
その瞬間。
クィセルスは口元を手で覆った。
「ぷっ……」
そして、堪えきれないように笑う。
「せやけど、あの銅像の人、ニードホッグのどっかの漫画家に、えらい似てはらへん?」
語歆も口元を僅かに上げた。
「ああ、あのネットで『めっちゃ長生き』って言われとる人か?」
「そう、その人どす」
二人は顔を見合わせる。
そして、同時に小さく笑った。
そのまま、校外へ続く街路へ向かって歩き始める。
しばらくして。
クィセルスが、再び口を開いた。
「漫画といえば……最近、長編アニメが一つ完結したん、知ってはる?」
「主人公がもともとは普通の人やったのに、最後にはアイドルの力を受け継いだ、あれか?」
「そうどす。あれどす」
「最後、意外とええ感じに締めたな」
だが、次の瞬間。
クィセルスの声色が変わった。
「その後、放送禁止にならへんかったんは、ほんま良かったわ」
語歆はすぐに答えた。
「調べてみたら、ニードホッグのほうで誰かが世論を煽っとったんやろ?」
「ええ。せやけど、南のほうにある国の一つが、直接配信を取り下げたんやろ?」
「バドルやな。ロキの北東にあるとこや」
「聞いた話やと、あのキャラの格好をしただけで集団からいじめられた人もおるらしいえ。しかも、キャラクターの見た目が似てるだけで、実際には別の作品のキャラやった人まで、同じような目に遭わはったとか」
「はぁ……今の平和な世界で、普通の市民がすることやとは思えへんな」
クィセルスは、くすりと笑った。
「向こうは、底線のほうを気にしてはるんやろ」
語歆も小さく笑う。
「ただ、その底線は……人を守るためのもんやないけどな」
二人が歩き続けていると。
やがて、空中歩道へ上がるためのポイントへと辿り着いた。
語歆は建物脇に設けられた足場を見てから、クィセルスへ振り返る。
「地面をそのまま行くんと、空中歩道のポイント使うん、どっちにする?」
クィセルスはすぐには答えなかった。
腰に携えた、小さな鋼索銃を抜く。
そして、建物の外壁を見上げた。
そこには、壁面と足場の間に分散して設置された、いくつもの踏み台がある。
「空中のポイント使いまひょ。うちが先に、道の様子を見てきますえ」
次の瞬間。
鋼索が射出された。
その先端は吸盤のように壁面へと吸い付き、しっかりと固定される。
クィセルスは、そのまま何度か身軽に移動した。
そして、あっという間に高所へと立つ。
語歆も続いた。
一度の跳躍。
それだけで、屋上へと飛び乗る。
クィセルスは語歆を見る。
「ほんま、あんたの体力は相変わらず大したもんどすなぁ」
語歆は少し気まずそうに答えた。
「……慣れただけや」
その直後だった。
クィセルスの黄色い瞳が、まるでカメラのレンズのように縮まり、そして広がる。
遠方を見つめていた彼女の声が、突然低くなった。
「……さっきまで道は普通やったんやけど……あっち、どうやら封鎖線が張られてはりますえ」
語歆は怪訝そうに尋ねる。
「どこや?」
クィセルスの表情が重くなる。
「兄はんが働いてはる、あの喫茶店の前どす」
そして、目を細めた。
「それに……警察と向かい合ってはります」
語歆は、一切の迷いを見せなかった。
「……行くで」
やがて二人の姿は、踏み台から踏み台へ。
高所を駆け抜けるように移動し。
そのまま、遥かな光と影の中へと消えていった。




