第四章 『冤火協議』
その事件が起きたのは、十年前のことだった。
当時、喰月市はまだ――「喰月特別行政区」と呼ばれていた。
——
クィセルスはゆっくりと顔を上げ、ジェイソンを見つめた。
そして、問いかける。
「警官はん……覚えてはりますか? あの頃、公式には一度も明文化されておへんかったんどすけど……暗黙のうちに、都市には一種の格付けが存在してましたやろ?」
ジェイソンは少し考えてから答えた。
「喰日市や喰金市を一線都市として扱う、あの話ですか?」
クィセルスは小さく頷いた。
「そうどす。そして……あの枠組みの外に置かれていたヴァルキリーと、喰月特別行政区が……どないな扱いを受けていたかも、ご存じどすな?」
ジェイソンには、分かっていた。
なぜなら――
それこそが、この事件の引き金の一つだったからだ。
——
いわゆる「上級都市」で暮らす人々は、いつしか根拠のない優越感を抱くようになる。
そして、その優越感を利用して。
自分たちより下にいる者を、平然と見下した。
喰月特別行政区は――
その中でも、特に頻繁に侮辱と蔑視の対象にされた都市だった。
——
クィセルスは、小さく息を吐いた。
「長い間、侮辱と抑圧を受け続けてきた人々が……あの人たちや、ひいては国そのものに好意を抱けるはずもおへん。そして十年前の、ある日――国は、喰月特別行政区が『特別行政区』として存在するための根幹を揺るがす政策を公布したんどす……」
ジェイソンが続ける。
「『月区国家安全法』……でしたね。当時、政府は住民に服従を強要し、喰月特別行政区の行政に国家が全面的に介入しようとした」
クィセルスは、もう一度頷いた。
「底に押し込められていた者たちにとって……あの政策は、まさに最後の一滴やったんどす。せやから、すぐに大規模な反発が起こりました」
——
街には、次々と抗議活動を行う団体が現れた。
だが。
政策に反対した者たちは、瞬く間に政府から――
「月独」
そう呼ばれるようになった。
彼らが求めていたのは、特別行政区である以上、本来認められているはずの基本的な権利。
それだけだった。
だが政府にとっては。
あらゆる抵抗が、国家転覆。
そして――
国家分裂を企てる行為と見なされた。
——
クィセルスが静かに口を開く。
「最初のうちは、まだ皆さん理性的に抗議してはりました。……けれど、政府が警察に銃器と武力を使わせるよう命じてから……すべてが変わったんどす」
ジェイソンは、重く頷いた。
「当時、あの黒警たちが多くの犠牲者を出したのは事実です。ネット上にも、事情も知らずに被害者を一方的に攻撃するような言葉が溢れていた。……ただ、ネットは閉ざされた場所ではありませんからね。住民たちはすぐに資料を照合して真相を突き止めた。世論も、そこから変わっていったと記憶しています」
クィセルスは俯いた。
しばらくの沈黙。
そして。
「……けれど、その前に」
声が、ほんの少しだけ震えた。
「うちらの父親は……もう、濡れ衣を着せられていたんどす……」
ジェイソンは無意識に背筋を伸ばした。
「君たちの父親は……何という名前ですか?」
クィセルスはゆっくりと顔を上げる。
そして。
静かに答えた。
「ジェフ・スノーマン……どす」
その名を聞いた瞬間。
ジェイソンは、すべてを理解した。
それは――
この事件を、さらに悪化させることになった死刑囚の名前だった。
——
警察が抗議団体に対して武力による鎮圧を始めた後。
国家政府は当然のように、警察による武力行使に関する情報を徹底的に封鎖した。
焦点を逸らすためには。
抗議者たちの「悪行」を、大きく見せる必要があった。
しかし当時。
解放軍が介入していたこと。
そして何より――
抗議団体が暴走するのを、ひたすら食い止めようとしていた男が一人いたこと。
その存在によって。
政府は、標的をその男へと向けた。
ジェフ・スノーマンへ。
——
クィセルスの声が、僅かに震える。
「ある日のことどす。父は川辺で……一人の女性の遺体を発見しはったんどす。そして、すぐに警察へ通報して……処理を頼みはった」
ジェイソンが言葉を継いだ。
「そして、身に覚えのない罪を無理やり着せられた……そういうことですね?」
クィセルスは頷いた。
その表情は、最初よりも明らかに崩れていた。
それでも。
必死に感情を押し殺しながら、言葉を続ける。
「警察は……父が無実やと証明できる証拠を、すべて処分しはった。そして……父を、強姦殺人の犯人に仕立て上げたんどす……」
——
ジェフ・スノーマンの死。
それは――
あの偏った思想に囚われた者たちを縛っていた鎖を、完全に断ち切った。
解放軍は、彼の代わりになろうとした。
だが。
彼らは、喰月の住民ではない。
そんな彼らが。
どうして、本当の意味で彼らに受け入れられるだろうか。
そして。
政府のスパイによる潜入。
過激な思想による扇動。
それらが重なった結果――
彼らは、最もしてはならないことをしてしまった。
——
クィセルスは、低い声で言った。
「……あの人たちは、解放軍の一人を……火を放って殺したんどす」
ジェイソンは、低く呟いた。
「……そういうことだったのか」
クィセルスは視線を落とした。
両手を、ぎゅっと握り締める。
指先が、緊張で小さく震えていた。
そして。
ほとんど独り言のような声で呟く。
「……兄はんは、きっと……父と同じ目に遭うんが怖かったんどす。せやから……警察を襲うようなことを……」
顔を上げる。
その瞳には、どうしようもない無念と痛みが滲んでいた。
まるで。
すべてを背負いながら。
それでも、自分には何も変えられない。
そう訴えているようだった。
ジェイソンは、深く息を吐いた。
「君たちが経験したことについては、本当に残念に思います。ですが……法律は、理解だけで境界線を失ってはいけない」
クィセルスは、小さく答えた。
「……分かっておりますえ」
そのときだった。
それまで黙っていた語歆が、突然口を開いた。
「俺、一つ提案があるんやけど」
その一言に。
その場にいた全員が、思わず語歆へ視線を向けた。
ジェイソンは少し考えた後、口を開く。
「……聞かせてもらえますか?」
語歆は真っ直ぐにジェイソンを見る。
「この事件……俺らに調べさせてもらえへんか?」
ジェイソンが眉を上げた。
「これは、簡単な事件ではありませんよ」
「分かっとる」
語歆は即答した。
「せやけど、俺は本気や。真犯人を見つけて……ジェレの無実を証明したい」
その鋭くも真っ直ぐな眼差しを見て。
ジェイソンは、ほんの少しだけ微笑んだ。
「……君は、この事件を解決することで、我々に彼の警察官襲撃を許してもらおうとしているんですね」
一拍。
そして。
「いいでしょう。引き受けます。ただし――一つ、条件があります」
ジェイソンは、語歆へ手を差し出した。
「彼が抱えてきた苦しみについては、私にも分かります。ですが、我々の現場の警察官たちも、あの惨劇を心に刻んでいる。だからこそ、同じことを二度と繰り返さないために、こうして手続きを設けているんです」
そして。
真っ直ぐに語歆を見る。
「語歆・サインズ。君には、彼を連れてきてもらいます」
一拍。
「我々に、謝罪させるために」
語歆は、差し出された手を見つめた。
そして。
迷うことなく、その手を握った。
「……約束や、局長」




