第一章 『死の蓮華』
北元2026年4月1日、午前7時50分。
喰日市にある、とある喫茶店にて。
店はまだ営業を始めていない。
シャッターは半ばまで下ろされ、店内にはまばらな明かりだけが灯っていた。
そんな店内へ、一人の金髪の女が、ひっそりと足を踏み入れる。
それに気づいた店主は、淹れたばかりのコーヒーをトレイに載せると、傍らでテレビをつけていた少年へ差し出した。
そして、ぽつりと言う。
「彼女、来たよ」
少年は困惑したような顔を浮かべ、間の抜けた声を漏らした。
「……あ?」
少年が店主の指し示した方向へ視線を向ける。
そこには、一人の金髪の女が席に座り、少年へ向かって手を振っていた。
店主は声を落として言う。
「店を開けるまでまだ時間がある。ほら、少し相手してやってくれよ……ジェレ」
ジェレは露骨に嫌そうな顔をした。
だが、返事はしない。
ただトレイを手に取り、まっすぐ金髪の女の席へ向かっていく。
そして、トレイを女の前へ置いた。
それを見た女は、目を細めて笑う。
「おっ、ありがとね」
そう言ってから、女は顔を上げ、ジェレの顔を見た。
そして、笑いながら言った。
「前よりずいぶん顔色が良くなってるじゃない」
ジェレは眉をひそめた。
その瞳には、かすかな罪悪感が滲んでいる。
それでも、不機嫌そうな口調で返した。
「……またそれかいな。ほかの言葉、言われへんの? 毎日来てはそればっかりや。もう耳にタコができそうやわ」
女は気まずそうに手を振りながら、笑って返した。
「ははは、悪い悪い。あんたも知っちょっじゃろ? わたし、もともと話すのが得意じゃなかもん」
その言葉を聞いて、ジェレの瞳に浮かぶ罪悪感が、さらに濃くなる。
それでもなぜか、胸の奥にある自分自身の感情だけは、認めたくなかった。
しばらく葛藤した末。
ジェレは、もごもごと口を開いた。
「せやけど……俺……」
女は意味が分からないという顔をして、首を傾げる。
「ん?」
ジェレは一度だけ、短く目を閉じた。
そして、何かを決意したかのように勢いよく目を開く。
だが、その口調には、決意とは裏腹にどこか照れ臭さが滲んでいた。
「ほんまは……前はいろいろ世話になって、ありがとな、マリー……」
言い終えた瞬間。
ジェレは顔を赤くして視線を逸らし、小さく舌打ちした。
「……チッ」
マリーは、そんなジェレの、素直になれずに目すら合わせようとしない姿を見つめる。
そして、安心したように口元を緩めた。
店内のテレビでは、犯罪をテーマにした番組が流れている。
司会者とゲストが交わす会話の声が、二人の沈黙とともに喫茶店の中へ静かに響いていた。
しばらくして。
マリーが、再びジェレへ声をかける。
「最近は、どげんしちょっ?」
ジェレは淡々と聞き返した。
「どないって、どのへんの話や?」
マリーは少し考えた。
そして、ジェレの問いに問いで返すように、再び口を開く。
「前、剣術を習いに行ったじゃろ?」
その言葉を聞いたジェレは、黙り込んだ。
胸の奥に、複雑な感情が浮かび上がる。
あのとき剣術を習いに行った目的は、剣術を学ぶことそのものだったわけではない。
むしろ。
あの剣が折れる前。
自分が、あの馬鹿野郎に剣術を教えられるほど熟知していた、かつての剣術。
それを、あの剣術の修行をきっかけにして呼び起こそうとしていたのだ。
だが。
昔の感覚を取り戻すことはできなかった。
それどころか、以前の剣の使い方が身体に染みついていたせいで、そのために習い始めた剣術すら、まともに身につけることができなかった。
考えれば考えるほど、ジェレの胸は苦しくなっていく。
視線はテーブルへ落ちる。
眉間には、少しずつ皺が寄っていった。
そして、ようやくゆっくりと口を開く。
「……あかんわ。どうやっても、感覚が掴めへん」
「確か、あんたの友達――語歆は、けっこう順調に覚えてたんじゃなかったっけ?」
ジェレは苦笑した。
その瞳の奥に、一瞬だけ寂しげな色が浮かぶ。
そして脳裏に、かつて語歆へ剣術を教えていた光景が蘇った。
それらすべてが、最後には自嘲混じりの一言へと集約される。
「俺を賽恩斯のあの化け物と一緒にせんといてや……それに、俺らは友達やあらへん。ただの仲間や」
マリーは直接答えなかった。
ただ、微かに笑う。
そして、テーブルの上にあったトレイをジェレの前へ置くと、続けて尋ねた。
「空中歩道っちゅうんを、知っちょっ?」
ジェレは怪訝そうに尋ね返した。
「賽恩斯とクィセルスがよう歩いとる、あのルートのことか?」
マリーはすぐに答えた。
「そうじゃ。あれは、実はここ数年でできた制度じゃっど。霊能で身体を強化するんが得意な人たちが、もっと安全に、もっと効率よく移動できるようにするためのもんじゃ」
ジェレはコーヒーを手に取り、何口か飲んだ。
そして、困惑したような顔で答える。
「そんくらい知っとる。せやけど、なんで急にそんな話をするんや?」
マリーはすぐには答えなかった。
ただ、静かな声で問いかける。
「その道ができたばっかりん頃、どんだけ混乱しちょったか、知っちょっ?」
その瞬間だった。
マリーが突然、胸元を押さえた。
表情が一瞬にして歪む。
そして、身体から大量の汗が噴き出した。
それを見たジェレが、恐怖の混じった声を上げる。
「おい!」
マリーの顔から、急速に血の気が引いていく。
呼吸は荒くなる。
それでも、彼女はどうにか声を絞り出した。
「あれは……一歩ずつ良うして、決まりを作って……そいで、今みたいになったっど……」
息を切らしながら。
声を震わせながら。
マリーは続けた。
「じゃっで、あんたも、あとちょっと頑張れば、きっと――」
その言葉は、そこで途切れた。
マリーの身体が前へ倒れる。
そして。
額が、テーブルへ激しく叩きつけられた。
「――ゴンッ!」
ジェレは慌ててコーヒーカップをトレイへ戻すと、勢いよく立ち上がった。
その音に驚き、厨房にいた店主が顔を出す。
まるで洞窟から飛び出してきたマーモットのように、カウンターからひょこりと頭を出し、ジェレのほうを見た。
「どうした!?」
ジェレはマリーに応急処置を施しながら、慌てて店主へ叫ぶ。
「は、早よ救急車呼んでや!」
女は、何も食べていなかった。
そして、そのコーヒーにも一口たりとも手をつけていなかった。
マリーが病院へ搬送されてから、ほどなくして。
何者かが音もなく店内へ侵入し、テーブルの上に置かれていたコーヒーカップを持ち去った。
そして、店内に設置されていた監視カメラの表示ランプが、赤から緑へと変わる。
だが。
これらの出来事を知る者は、誰一人としていなかった。
北元2026年4月1日、午前8時30分。
病院にて、林・マリー・ステックの死亡が確認された。
死因は、何らかの毒素による心不全。
そして、死者と最後に接触した人物であるジェレ・スノーマンは、直ちに警察によって第一容疑者に指定された。




