序章 『赤刃の少年』
月黒風高――そんな言葉が似合う夜だった。
巨大な満月が夜空の高みに浮かび、冷たい白光が静かに喰火市を見下ろしている。
街では車の流れが途切れることなく続き、人々が夜の闇の中を行き交っている。
その喧騒から遥かに離れた高所。
建物の影に、一人の女が身を伏せていた。
月を背にしているため、その姿は闇に溶け込んでいる。
ただ、肩口から零れ落ちた一房の金髪だけが、月明かりを受けて淡く輝いていた。
女は狙撃銃をしっかりと固定する。
銃口の先にあるのは、遠く離れた一軒の道場。
照準器の映像には、明かりのついた道場内部が鮮明に映し出されている。
いくつもの人影。
そのうちの一人が、窓を背にして立っていた。
そして、そのすぐ傍にいる少年だけは、照準の中心には入っていない。
女は息を止めた。
指先で、静かに引き金を絞る。
迷いはなかった。
躊躇もない。
――銃声が、夜空を切り裂いた。
放たれた弾丸は空気を裂き、道場へ向かって一直線に飛んでいく。
そして、命中する寸前。
横合いから、一本の赤い閃光が強引に弾道へ割り込んだ。
「――キィンッ!」
耳をつんざく金属音が夜空に炸裂する。
弾丸が、斬られた。
弾頭は真っ二つに裂け、砕けた金属片が火花のように周囲へ飛び散っていく。
女の目が見開かれた。
「……刀で、止めたっていうのかい?」
照準器の映像を凝視する。
だが。
そこに少年が手にしている刀は映っていない。
見えるのはただ、少年がその場に立っている姿だけ。
微動だにしていない。
逃げてもいない。
追ってくる様子もない。
ただ少年は、弾丸が飛んできた方向へ顔を上げていた。
数百メートルという距離。
建物と建物の間。
夜の闇を隔てて、二人の視線が一瞬だけ交差した。
女は照準を動かさない。
標的は、まだ道場の中にいる。
少年ではない。
そう判断した、その瞬間だった。
「――ドンッ!」
近くの道路から突然、轟音が響いた。
金属が激突する音。
ガラスが砕ける音。
そして、警報音。
突発的な交通事故が、静寂を一瞬で吹き飛ばした。
女の意識が、反射的にそちらへ逸れる。
ほんの一瞬。
それだけだった。
だが。
狙撃において、その一瞬は致命的だった。
女はすぐさま照準器へ視線を戻す。
「……?」
少年が――
消えている。
女は眉をひそめ、素早く照準を修正した。
道場内部の人影を再び捉える。
そして、もう一度引き金を引く。
「――ドンッ!」
二発目の弾丸が放たれる。
だが。
それもまた。
「――キィンッ!」
空中で赤い軌跡に斬り裂かれた。
「なっ……!」
女が顔を上げる。
いつの間に。
少年は、すでに屋上へ立っていた。
冷たい眼差しで、狙撃地点を見下ろしている。
女は思わず吐き捨てた。
「……くそったれ。なんだ、その反応速度は? AIロボットか何かだべ?」
答えはない。
代わりに。
少年が一歩、踏み出した。
女も即座に姿勢を変える。
そして、連続して引き金を引いた。
「ドンッ! ドンッ! ドンッ!」
弾丸が雨のように吐き出される。
だが。
一発たりとも届かない。
赤い閃光が走るたび、弾丸が斬り落とされていく。
金属片が火花のように夜空へ飛び散った。
そして少年も、もはやその場に留まってはいなかった。
彼が狙ったのは、建物と建物の間に伸びる空中歩道。
踏む。
跳ぶ。
駆ける。
空中歩道の踏点を正確に踏み抜き、建物の間を高速で移動していく。
その動きには一切の無駄がない。
まるで、そこに存在する道筋を最初からすべて記憶しているかのようだった。
二人の距離が、急速に縮まっていく。
女は歯を食いしばった。
「おいおい……冗談やめてくれんべ!」
女は素早く狙撃銃を組み替える。
掃射モードへ切り替えた。
次の瞬間。
凄まじい火力が一斉に吐き出された。
だが。
結果は変わらない。
弾丸の雨を掻い潜り、少年はなおも迫ってくる。
そして。
距離が限界まで縮まった、その瞬間。
少年の構えが変わった。
女の目が見開かれる。
「その技は――!」
少年は左手で右腕を押さえた。
深く息を吸う。
そして。
一気に刀を振り抜いた。
赤い炎が斬撃と共に爆発する。
灼熱の炎が巨大な弧を描き、そのまま女へと一直線に襲いかかった。
「――っ!」
女の瞳孔が縮む。
身体を横へ投げ出す。
炎の斬撃が身体の脇を掠めていった。
だが、その余波だけで――
背後にあった電柱が真っ二つに斬り裂かれた。
「――バキィッ!」
金属が砕ける。
電線が四方へ散る。
赤熱した断面を晒した電柱が、轟音と共に転がり落ちていく。
その直後。
赤い閃光が走った。
女の手にしていた狙撃銃が、中央から斬り落とされる。
「な――」
次の瞬間には。
鋭い刃が、彼女の眉間へ迫っていた。
女は咄嗟に背後から長剣を抜き、辛うじて受け止める。
「――ッ!」
激突。
魔力の衝撃が炸裂し、二人の身体が弾き飛ばされるように距離を取った。
空気には焦げた匂いが漂っている。
少年の手にした刀身からは、まるで今なお熱を帯びているかのように白い蒸気が立ち上っていた。
女は少年を睨みつける。
そして、ようやくその姿をはっきりと捉えた。
少年の口には、一振りの八斬刀。
右手には、赤い紋様が浮かび上がった繡春刀。
「……なるほどな」
女はそう呟くと、冷たい笑みを浮かべた。
少年が口に咥えていた八斬刀を外す。
それを見て、女は嘲るように口元を歪めた。
「そのボロ刀で止めてたってわけか。ちょうどいいべ。――この剣の威力、試してみるべさ。AIのガキ」
女は剣を背後へ横たえる。
その構えは、先ほど少年が見せたものとまったく同じだった。
剣身の周囲で冷気が渦巻く。
霜が瞬く間に凝結し、凍てついた空気が螺旋状に集束していく。
次の瞬間。
巨大な氷の斬撃が、少年へ向かって放たれた。
少年は退かなかった。
一撃。
八斬刀が振るわれる。
氷の斬撃が、粉々に砕け散った。
無数の氷片が宙へ舞う。
その勢いのまま、少年は女の背後へと回り込んだ。
「『試す』っちゅうんは、こんな軽い力しか出せへんのか?」
声は冷淡だった。
少年が八斬刀を振り上げる。
女が振り返るよりも早く。
「――ゴッ!」
鈍い音が響いた。
刃ではない。
ただの鈍撃。
それだけで十分だった。
女の意識が、一瞬にして途切れる。
身体から力が抜け、その場へ崩れ落ちた。
――勝負は決した。
少年は、倒れた女を見下ろす。
そして、冷たい声で言った。
「AIのガキやて? 技術もあらへん、道具に盲目的に頼るしか能のない奴――いったい、どっちがAIなんやろな?」
そう言って、少年は刀を収める。
「……まあ、あんたにいくら言うても時間の無駄や。ほんま、しょうもないガキやで」
少年は八斬刀を腰の後ろにある鞘へ収めた。
そして、気を失った女を軽々と担ぎ上げる。
そのまま身体を反転させ、道場の方向へ視線を向けた。
庭。
そこには、一人の男が立っていた。
老いた中年の男。
その男は、屋上に立つ少年を遠くから見つめている。
片手には捕虜。
もう片方の手には赤い刃。
老人はしばらくその姿を眺めていたが。
やがて、困ったように小さく息を吐いた。
「勝ったんは勝ったんやけどなぁ……」
老人は苦笑する。
「……どうも、ちぃっとばかし、やり過ぎちゃいますのん?」




