第二十話
厩の飼葉の上にごろりとルーを寝かせる。ぴくりとも動かない瞼は人形のようだが、微かな寝息が聞こえ、彼に命が宿っていることを知らせる。
画家は懐から100ドル紙幣を数枚引っ張り出してロレンツォに渡す。今夜のお駄賃だ。厩の使用料のようなものでもある。
「いよいよこの子をモノにできる。数年前から狙っていたんだ。この子はますます美しくなった…」
譫言のような画家の言には取り合わない。懐に100ドル紙幣をしまい込んで、ロレンツォは懐中電灯を消した。灯りが見えると危険だ。人目に付きやすくなる。
「セデュイールは、絶望するかな? この子を私がモノにしたと知ったら…あの美しい貌が歪んで涙を流す様が見てみたい…知っていたかい? セデュイールはこの子にぞっこん惚れ込んでいるんだよ。身も世もないほどに…」
「セデュイール様には、婚約者がいますけど」
「そんなものはただ、世間体のためだけのものさ。何年もこの子を手元に置いて、陸みあってきたんだろう。…この子を夢中にさせて、セデュイールから奪い取るのも愉しそうだな」
「あなたが、そんなことできますか?」
「訳はないよ。幾人もそうやって夢中にさせてきたんだ。…この子を返すことを交換条件にセデュイールに迫ったら、彼は足を開くかな? 固く閉じた蕾のような彼が、私に懇願するようになるんじゃないか…」
「は?」
氷塊を飲み込んだようにロレンツォの背筋が冷えて喉が塞がる。
信じられないものを見るように、暗闇にぼんやり浮かぶ、画家の背中を見る。
「セデュイール様にも手を出すつもりなんですか? あなたはどこまで貪欲なんです?」
「今更、何を言っているのだね。私の性癖はじゅうぶん知り尽くしているだろう、君は…」
くるりと振り返った画家は闇の中で燃えるロレンツォの瞳を見て、面白そうに喉を鳴らす。
「もしかして君は、セデュイールに恋していたのかね? はは、それで彼をモノにしたいと思っていたとでも?」
「……」
「おかしいね、君のような…薄汚い庶民が、セデュイールと釣り合うとでも思っていたのかね? 腹黒で、性悪で、この子のような無垢さもない、私の使い古しの中古品の君が? 彼に愛される資格があるとでも思っていたのかい? なんと愚かな…ははは、愉快だ。実に愉快だ。久しぶりに心の底から笑えたよ。感謝する、ロレンツォ」
呵々大笑した画家は次の瞬間にはロレンツォのことなど忘れ果てたかのようにルーシュミネに覆いかぶさる。ハアハアと息を荒げた、盛りのついた豚のような背中をジッと見つめていたロレンツォは、――護身用のナイフをポケットから取り出し、その無防備な背中めがけて、斬りつけた。
「あなたが、ボクをこんなふうにしたんだ、あなたが、あなたがッ…」
驚愕に見開かれた画家の目はもう命を宿していない。がらんどうの、ガラス玉だ。何度も背中に斬りつけ血まみれになったロレンツォはハアと肩を落とす。血がぬるぬるして気持ちが悪い。Tシャツを脱ぎ捨て、くしゃくしゃに丸めて汚れていない部分で顔を、手を拭う。ナイフの持ち手も拭って、Tシャツ越しに手を伸ばし、眠っているままのルーシュミネに握らせる。
男の死体に覆いかぶさられたまま眠るルーシュミネを感情のない目で見下ろして、ロレンツォは管理会社の事務所に戻った。深夜で、がらんとした人気のない事務所の灯りもつけず、手探りでロッカーを引き当てたロレンツォは、着替えを引っ張り出す。ブラインドの下げられた事務所の窓に寄り隙間に指を入れて覗くと、厩からフラフラ抜け出すルーシュミネの姿が微かに見えた。
まんまと引っかかって、自分が殺したと思い込んでいるのだろう。おぼつかない足取りで遠ざかっていく後ろ姿をしばらく眺めてから石鹸で顔と手を洗い、厩に引き返す。奥の飼葉の下に隠した血まみれのTシャツを処分しないといけない。自分のいた痕跡はすべて消し去らなくては。厩に戻ったロレンツォは懐中電灯で死体を照らして、動かないその巨体を足蹴にした。
間もなく現れたセデュイールとの交渉が成立し、ロレンツォは浮足立つ。ずっと求めていた、焦がれていたあの場所に、あの、ルーシュミネのいたはずの場所に、自分が立てるかもしれない。それはとてつもない誘惑であり、画家を殺し、殺人の罪をルーに擦り付けた動機の一端を成していた。
モーターボートで沖合に出て画家の財布と凶器、ついでに汚れたTシャツを湖に沈めながらロレンツォは口元の笑みが抑えられなかった。すべてがうまくいっている。そう思っていた。
数日後に、セデュイール逮捕の報を受けるまで。
「バーで喧嘩したロッキーが怪しいって、刑事サンには言っておいたぜ。俺って優しいだろう?」
カフェ『ブエナ・ヴィスタ』のいつもの席で、ふんぞり帰ったファルコは笑う。オレンジジュースに突き刺したストローを噛みながらロレンツォは彼を睨み上げた。
「…それで、話ってなんですか」
「わかってるだろうが。例の画家殺しの件だ、…ホントはお前が犯人なんだろ? 取り分の件で揉めたかア?」
「なんのことですか」
「しらばっくれるなよ。お互い後ろ暗い事情持ちだ、仲良くしようじゃねえか。…例の件、警察に垂れ込んでもいいんだぜえ、お前たちがやってること、俺は知らなかったってことにしてさ。脅されて仕方なく薬を混ぜてただけで、他は無実なんですーってな。探せば被害者はゴロゴロいる。俺の証言がありゃ、お前に捜査の手が伸びるのは時間の問題だ」
「……」
ファルコは金を要求し、夜に厩で待ち合わせることにして二人は別れた。
――既に一人殺しているロレンツォに、抵抗は少なかった。どうせ、生きていても役に立たないようなクズだ。管理会社の職員として、自分はゴミを排除し、町を綺麗にしてあげているだけなのだ。
死骸は厩に放置し、殺害に使用した包丁はまた湖に捨てた。
あとはこの罪をどうルーシュミネに着せるかだが、…それは後でゆっくり考えよう。
ロレンツォの足取りに迷いはなかった。間違ったことをしているという、自覚は一切なかった。
「いつもそうです、ボクら庶民は、セレブの連中から見下されて、蔑まれて、人間じゃないような扱いを受けるんだ。好き勝手やる連中の尻拭いをするのはいつもボクらです。これは罰なんだ、ボクらを蔑んだ罰なんだ、芸術家なんて名ばかりの、薄汚いレイプ野郎。死んだほうが良かったんですよ、これで町も清潔になるっていうもんだ!」
「君の言い分も、わからなくはないがね、…」
ブラス警部は口ごもる。コモ湖に毎年のように避暑に訪れるセレブどもに蔑まれた経験は、彼にもある。もう慣れてしまって、何も感じなくなっていたが。
「…君らが陥れた被害者は、ほとんどが立場の弱い、庶民だった。君は画家と共謀して、彼らを嵌めていたんだろう。それについてはどう思うね?」
「……。隙があるからいけないんです。みんな考えなしの、頭カラッポの、バカだから。付け込まれても仕方がなかったんじゃないですか?」
ツンと他所を向きながらロレンツォは嘯く。これは、一筋縄では行かないな。とことん性根のねじくれてるタイプだ。マトモに相手をしていると、こっちが疲弊して来るような…。
「君が陥れた、リーヴェ君に対して、伝えたいことはあるかね」
「――」
ロレンツォの黒い瞳が初めて正面を向く。深い井戸の底のような瞳は電灯を反射し、きらきら輝いている。星を吸い込んだかのように。
「いい経験になったんじゃないですか? バカなあのひとにとっては。いっつもバカなことばっかり繰り返して、セデュイール様を振り回して…自分がどれだけ恵まれてるのか、考えもしないで…」
「ふむ、」
「ボクは間違ったことをしたとは思ってません。間違ってるのは世界の方だから。ボクはもっと高いところにいける人間なんです。みんなに愛されるべき人間なんです。ただ庶民に生まれたってだけで、虐げられるなんておかしい。間違ってる。何もかも、この世界は…」
「それで君はリーヴェ君に執着したんだね。庶民の生まれで、セレブの世界に庇護されている彼に…」
「……」
流暢に、歌うようだった声は途切れて、ロレンツォはぎろりとマリウスを睨む。その眼差しは警部の言葉を肯定し、否定し、嫉妬と執着でがんじがらめになった、彼の心そのもののようだった。




