第十八話
「ブエナ・ヴィスタってカフェ、知っている? どこにあるの?」
面会から帰宅し、探偵を訪ねたルーはそう聞く。
紅茶カップを傾けながら本日はどこに聞き込みに行こうかと思案中の探偵は、鷹揚に頷きながら説明する。
「湖畔沿いのカフェですな。町はずれの…私も何回か行ったことがあります。ウエイトレスの女の子がそれはもう愛らしくて…」
「セデュが、言っていたんだけど。何か手掛かり、あるんじゃないかな?」
「そうですねえ…」
ぐいと紅茶を飲み干した探偵は鳥打帽を掴み上げトレンチコートに袖を通す。
「では今日は愛らしいウエイトレスに聞き込みに参りましょうか。何かこれまでとは違った証言が得られるやも…バロット君、車の支度を」
「へいへい」
探偵の忠実な助手はくるくる車のキーを指で回しながら了承する。3人はそして一路、カフェ『ブエナ・ヴィスタ』に向かった。
「セデュイール・レヴォネさんなら、確かにこの店に来ていましたよ。何回か見かけました。有名人だし、あの美貌でしょ。すぐにわかりました」
休憩中の札をドアに掛けたウエイトレスの少女は急に訪れた探偵、その助手、ルーに席を勧めながら、そう口にする。
顔を見合わせた3人はほっそりとしたブロンドの少女に向き直り、身を乗り出す。
「彼は一人でいたのかね。誰かと会っていたりなどは?」
「ええ、ロレンツォ君…管理会社の男の子です。この店の常連で、よく来てくれる子なんですよ。あの子といたのを2回くらい、見ましたね」
「話の内容は」
「さあ、そこまでは…」
管理会社のロレンツォ。ルーも何度か顔を合わせたことがある、気がする。親しく言葉を交わしたことはないが――褐色の肌と黒い巻き毛が愛らしい男の子だ。
「なんでロレンツォ君が、セデュと…」
「浮気の現場ってことっすかね」
「シッ!」
デリカシーのないバロットを黙らせた探偵は少女に向き直り、咳払いをひとつ。
「…その、ロレンツォ君について、教えてくれないか。彼はどういった子なのかな?」
「どうって…愛想のいい、良い子ですよ。いつもニコニコしていて、無邪気な感じで…でも、亡くなった画家の人と、あのバーテンダーさんとも親しくしていたみたいだから、ショックを受けていましたね。わたし、あの子が可哀想で…」
「ふうむ?」
「親しくしてた、ってのは間違いないんすか?」
「ええ、よくこの店にも一緒に来ていましたから。あの奥の席に座って…」
「一緒に、ってのは、3人で?」
「いいえ。画家の人とバーテンダーさんが一緒に来店することはなかったですね…」
「…フォンダリの旦那」
「ああ、におうなア。事件のニオイがプンプンする」
腕を組んだ探偵は眉を顰める。きょとんとしたウエイトレスは首を傾けて、深刻な顔の男たちを眺めていた。
マルセル・ヴィオレは管理会社の職員である。5年前に結婚した妻がいて、子供は2人。管理事務所からそう遠くない場所に小さな家を構え、絵に描いたような幸福な家庭を築いている。
そんな彼の平穏は唐突に破られた。
仕事場に闖入してきた、警察によって。
「マルセル・ヴィオレだな。署まで来てもらおう」
「なんですか。俺が何をしたって言うんですか」
「詳しい話は署でする。所長の了承も得ている」
「なん、そんな、なんで…」
困惑しきりの抵抗むなしく、マルセルは車に乗せられた。騒動を傍観していた管理会社の少女は、ロレンツォの机に手を突いて声を潜める。
「あの、殺人事件の件かしら。マルセルさんが犯人とか?」
「ええ、こわーい。なんでもない顔して仕事してたじゃないですかあ。ボク昨日あのひとと二人で見回りしてたんですよお」
「何もなくてよかったね、ロレンツォ君」
ポンポンと少女に肩を叩かれる。内心で舌を出しながらロレンツォは机に向き直った。
オリンピア嬢は別荘を閉めてミラノに帰った。彼女の家がセデュイールとの婚約破棄を発表したのはつい昨日のことだ。オリンピア嬢の別荘の掃除と、門の修繕、車止めの整理…やることはたくさんある。しばらくマルセルが抜ける分、負担は管理会社の各人にのしかかってくることだろう。
「さ、お仕事お仕事。ぜったいボクは定時で上がりますからねえ!」
管理会社内部の暗雲を振り払うように明るい声を出す。笑い声がぱらぱらと返る。
次の瞬間にはマルセルの運命など忘れて、ロレンツォは書類に屈みこんだ。
「画家が殺される日の1週間前、お前はファルコの店で画家と飲んでいたそうだな」
「…覚えていません」
「目撃証言が複数出ている。ずいぶん親しそうに、肩を組んでいたそうじゃないか。そして深夜に二人で店を出た」
「……」
「お前は画家の愛人だったのではないか? そのネタをファルコに握られて、脅されていた…」
「俺はゲイじゃない、異性愛者です。妻も子供もいる!」
「それなら猶更、画家と関係を持ったことは秘さなければならない。君の口座からファルコの口座への送金履歴を見たよ。画家とのことでなければ、他にどんな理由があったのかな?」
無機質な取調室のパイプ椅子に掛けたマルセルは唇を噛む。思い出したくもない数週間前の記憶が蘇る。画家が死んで、厳重に封をしたはずの記憶が。
「…あの日は、管理会社の送別会で。職場の連中とファルコの店に飲みに行ったんです。浴びるように酒を飲んでも、俺は潰れない自信があった。でもあの時だけは…途中で意識が混濁して、曖昧になって…気付いたら俺は、厩に居ました」
「厩というと、画家が殺されていたあの場所だね」
「はい。俺はあいつに、…あのクソ野郎に、いいようにされた後でした。…俺はあいつが憎かった、殺したいと思いました。でも、俺はやってません。妻や子供がいるんです。どうしてそんな真似ができるでしょう」
「ファルコには、その件で脅されていた?」
「…はい。でもあいつは…ほかにも同じようなやつが、何人もいたんです。1年前に自殺した、政治家の別荘で雇われていた使用人の少年…彼も画家の被害者のひとりだったんじゃないかと思います」
「ふむ、…」
画家による連続レイプ事件は、その被害者が男ばかりであることから、公になることのないまま闇に揉み消されてきたということか。被害者とはいえ、男に犯されたなどということが明らかになれば世間からは色眼鏡で見られる。立場の弱い人間ならなおのこと、泣き寝入りせず戦うことなどできないだろう。
「画家が殺された晩、それからファルコが殺された晩の、君のアリバイは?」
「5時に管理会社を閉めて、家に戻りました。…どちらの日も、家族とずっと一緒に居ました」
頭を抱えて粗末な机に突っ伏したマルセルは低く呻く。証人が家族ではアリバイにはならない。だが真実を伝えるしかない。俺はやっていないのだから。
沈黙が落ちた部屋には、誰かの腕時計のカチカチという秒針の音だけが響いていた。まるで、マルセルを追い詰めるように。




