第十六話
――それはブルースの結婚披露の、一週間前のことだった。セデュイールはオリンピアの別荘での夜会に招かれ、ルーシュミネと共に参加した。
白のタキシードを纏ったルーシュミネは首元に金のリボンを巻き、エナメルのつま先の尖った白い靴を履いていた。
チャコールグレーのフロックコートにワインレッドのクラヴァット、胸元に同色のハンカチを差したセデュイールと並ぶと、ルーシュミネの華やかさはいや増して、天から使わされた聖なる存在のように見えていた。
「お行儀よくしなさい、酔って他の客に絡むようなことはしないように」
「わーかってるってばー。君の婚約者さん主催のパーティーだろお? さすがに僕だって弁えてるよ…」
まずオリンピアに声をかけ、居並ぶ客とも挨拶を交わし、何度も乾杯し――そうこうするうちに、ルーシュミネの姿はまた傍らから消えていた。
「ほうっておきなさいよ、踊りましょうセデュイール…」
広間では管弦楽の優美な調べが流れだしている。これはモーツァルトだ。交響曲第41番ハ長調、K551。オリンピアに断りを入れて手を取り合って踊る客たちの間をすり抜け、シャンデリア輝く広間から、生花の香りが漂う廊下に出る。燭台がいくつも灯されオレンジの光が廊下を照らし出している。廊下を進んでいくと客間があり、そこを抜けると書斎がある。書斎には人影がなく、天井まである本棚にはぎっしり古びた革装丁の本が並び、カビと古い紙のにおいがしている。
書斎の中央にあるソファに、捜していたルーシュミネの姿があった。ぐたりとだらしなく横たわったルーは、革装丁の本を胸に載せた姿勢で、すやすやと眠りに就いている。三つ編みにした長いブロンドがだらりとソファの下に垂れ、靴も靴下も脱ぎ捨てた素足が投げ出すように、ソファの肘掛の上にちょこんと乗っている。
セデュイールは眠っているルーに近づく。眠りは破られない。どこか遠くでモーツァルトの演奏が聴こえる。セデュイールはソファの肘掛に屈みこみ、その素足を摘まみ上げる。
白く細い足首から繊細なつま先へと視線を滑らせる。桜貝のような色をした形のいい爪がつま先を彩っている。赤子のように柔らかい足の裏、滑らかなその白い肌、愛らしく並んだ細い足指、…。
セデュイールは血管の浮いたその足の甲に口づける。水の中に長らく浸されていたような冷たさが唇に触れる。どこもかしこも神聖なもので形作られているようなルーの足指に香炉を塗り込んでやりたい。いつでも奔放に私を振り回すこの子を私は手放すことができない。その罪深さを知りながらなお、彼を抱え込んだままでいたい。神はお許しにはならないだろう。地獄に落ちる振る舞いだろう。道のない恋だ、後ろ暗く、人の眉を顰めさせるような。ルーは気づいているのだろうか。もしそうだとしても、…放蕩を繰り返す彼は、私の元から逃げ出す機を窺っているのかもしれない。
いずれにせよ、ただ秘めているしかない恋だ、心の中だけで、神を、オリンピアを、両親を、偽り続けていくしかない…
捕まえた足首を離すこともできずぼんやりとそれを撫でさすっていたセデュイールは咳払いの音に我に返る。
にやにやとした視線に見つめられていることに、そこで初めて彼は気づいた。
いつの間に忍び込んだのか、絨毯に足音を吸わせながらゆっくりと近づいたのはピエトロ・ゼンだ。近隣の別荘を所有する画家で、夜会で毎年顔を合わせている男だ。
「どうかそのままで。絵のように美しい景色だ。まるでニンフと羊飼いの美青年のようじゃないか。神話的だね。写生させてほしいくらいだよ。まさか君に、その手の趣味があったとは、…いや、驚いたよ、まったく…」
「…なんのことですか」
「しらばっくれなくてもいいよ。私にはわかるんだ。同類の匂いというやつだね。そんな場面を見せられたらもう…」
美青年ばかりを絵の題材に選んでいる巨匠は顎を撫でながらいやらしく笑う。彼からは、毎年のように絵のモデルにと乞われ、セデュイールはそのたびに丁重に断って来たのだ。昨年からはルーをモデルにしたいと言い出し、根無し草のようにふらふらついていきそうになるあいつを留めるのに必死になったものだった。
「君たちは、愛人関係にあったのだね。いつか私も混ぜてくれないかね。美しい青年ふたりと過ごす夜は甘露のようにこの喉を潤してくれることだろう…」
「…ルーは愛人ではありません。私たちはそういった関係では…」
「この子は既に男を知っているのだろう。いろいろとよくない噂も聞いているよ…今更恥ずかしがらなくても良い。君はこの子を抱いているのだろう? 別荘に二人で閉じこもって、めくるめくような夜を…ああ、いいねえ、想像しただけで身体が昂ぶってくるようだ」
きっと睨みつけるセデュイールの視線を受け流し、画家は詩を諳んじるように言う。猫が鼠を甚振るような残酷な光をその目に宿して。
「君の奥さんとなる人は、君たちの関係を知っているのかな? 私の口から、彼女に知らせてあげたら、君たちはどうなるかな…」
「事実無根の、誹謗中傷です。彼女はそんな言葉には取り合わないでしょう」
「そうかね。しかし、君が何を言い張っていても、事実はいずれ明らかになるものだよ。ぶちまけられた毒薬が染み出すように、君の経歴に紙魚をつくる。紙魚はどんどん広がって、君も彼も飲み込み、諸共に泥沼へと沈ませることだろう…」
「…いくらをご希望ですか」
ルーを守るように立ち塞がったセデュイールはそう画家に尋ねる。薄汚いが、同様に薄汚い相手には有効な手段だ。金を積んで黙らせる。ルーを手に入れる際に、彼の父親に対して行った手段でもある。
「金か。それはまあ、いいかな…それよりももっと、貴重なものがほしい。…君自身だよ、セデュイール。何度迫っても堕ちてこなかった君を、私は手に入れたい。受け入れてくれるね?」
「……」
唇を噛んでセデュイールは目を伏せる。すやすやと、人の世の煩雑さから離れて眠る愛おしいルーを見つめる。彼を守らなければならない。そのためならば何でもする。私はそう決めたのだ。…
「あなたの、絵のモデルになりましょう。その後のことは…あなた次第です」
「ふむ。まあいいだろう。堅牢な城を攻めるのもまた楽しいものだ…」
老画家はもう一歩セデュイールに近づいて、その肩を軽くなぞる。
「明日の朝、私の屋敷に来るように。共に楽しもうじゃないか、セデュイール」
老画家はそう言って去った。そうしてそれから毎朝のように、セデュイールは画家のアトリエに通うことになったのだ。
彼が死ぬ日まで。




