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ウンディーネシリーズIF コモ湖殺人事件  作者: 咲佐きさ


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第十一話

「ぼく、殺しちゃった…人が、人が死んでて、重くて、馬小屋で、…バーからずっと、忘れちゃってて、なにも、わからなくて、ぼく、ぼくは…」

「…馬小屋? 管理会社の厩か? この先にある…」

「そう。うん、…」

 セデュを巻き込むわけにはいかない、黙れ、口を噤め、何事もないみたいに笑ってみせろ。警察に自白に行くのだと言え。もう構わないでくれと、言ってくれ。

 頭の中で声がガンガンこだましている。自分でもわかっている。こんなふうに縋られたらセデュは自分を決して見放せない。最初からそうだった。あの5歳のときから。ルーはセデュを泥沼に引きずり込むのだ。いつだってそうやって、彼を苦しめているのだ。

「ぼく、いかなくちゃ。けーさつ…このさきだよね、町のほう…」

「本当にお前が殺したのか? 記憶がないのだろう?」

「でも、ぼくしか、いなかったし…手も、血まみれで…」

「凶器は? 銃か、ナイフか? お前はそんなもの、持ち歩いていないだろう?」

「わかんない…なにもおもいだせなくて…あ、」

 起きた時に掌から落ちたあれは、凶器だったのではないだろうか。ルーシュミネはそれに思い当り、覚束ない言葉で必死に伝える。

「ぼくが、もってたんだ、たぶんナイフ、だとおもう…それで刺したんだ、きっと…」

「ソレは今どこに?」

「馬小屋の中に…置いてきちゃった」

 ばっとルーの歩いてきた道の方角に目をやったセデュは一瞬だけ逡巡し、それから意を決したようにルーの手を引く。

「その血まみれの服を脱げ。私の上着を貸してやる。…すぐ戻る。お前はここに隠れていなさい。私は厩へ行く。凶器に付いた指紋を拭い去らなければ…」

「え、なん、…だめだよ、なんで、…」

「お前は意識がなかったのだろう。誰かに嵌められたのかもしれない。…警察には行くな。やつらはお前を犯人だと決めつけてろくに捜査もしなくなるだろう」

「セ、デュ、やめてよ、きみは関わらないで、ぼくがわるいんだ、ぼくのせいなんだから…」

「必ず戻る。約束する。安心して、待っていてくれ、ルー。…私がお前との約束を、破ったことがあったか?」

「……」

 ばさりと上着をルーに羽織らせたセデュイールはそう言って、一瞬だけルーを強く抱き寄せ、呆然とするルーをモーターボートの陰に残して、遠ざかっていった。




 ルーがセデュと初めて会ったのは5歳の時だ。パリで開かれたピアノコンクールで、ともに覇を競った仲だ。優勝したのはルーより6歳年上のセデュだった。息子に期待をかけていたルーの父は怒り狂って、控室でルーを打った。父親の期待という名の重圧に押しつぶされたルーが委縮して練習ではありえなかったようなミスを連発していたことを理由に。

 控室の片隅でしくしく泣くルーを気に掛ける大人は誰もおらず、見かねたセデュは声をかけた。それがきっかけだった。

 互いの家が近いことを知ったセデュはルーを屋敷に招いた。ルーが訪ねてくることはしばらくなかったが――数年後のある冬の日、粉雪の舞い散る朝、凍える手がセデュの屋敷の門を掴んだ。父親による暴力でボロボロになったルーが、逃げてきたのだ。そのころ彼は13歳、セデュは19歳になっていた。


 セデュは両親を説得し、ルーを屋敷で匿うことにした。傷の程度を見るためにルーを脱がせると、胸元から腹にかけて、満遍なく青痣で彩られ、ところどころ膿んでいた。背中には鞭で打ったような痕がある。愕然とするセデュにぼんやりと視線を向けたルーは切れた口端を歪めて不器用に笑った。それが父の怒りを煽るだけのものだったとしても、それだけがルーの処世術だった。

「お前は帰ったらいけない。このままだと、父親に殺されてしまう」

「いくところ、ないから…むりだよ、おにいちゃん」

 ひどく殴られて腫れあがった目元を冷やしながらルーは言う。耐えられなくなって逃げ出してきたというのに、傷が癒えたらまた家に戻ると言う。

「ぼくがいけないんだ。ぼくが役立たずだから。バカで、ぐずで、なにもできない、できそこないだから。だから父さんはぼくを殴るんだ。殴られたらちょっとはまともになれるから。そう言っていた…」

 ルーはピアノを辞めてしまった。コンクールで結果を出せない彼を、父親は見限った。そしてルーは自分の家で、実父の支配する家の中で、虐げられて生きてきたのだ。

 19歳のセデュは決意した。この少年を庇護することを。彼を守るためなら、なんだってやる。それは8年も彼の窮状に気付かなかったことへの、償いでもあった。

 案の定ルーの父親はすぐにセデュの屋敷に怒鳴り込んできた。息子を返せと口汚く罵る父親は、しかし、セデュの父が提示する金額をあっさりと受け入れ、手を引いた。

 ルーの父は10万フランで息子を売ったのだ。以来、ルーの父が屋敷を訪ねてくることはなかった。

 

 金で買われた子供、とルーを腐す言葉を吐いた女中はすぐに解雇されたが、その言葉は13歳のルーの心臓に染み付いた。ろくでなしの自分はセデュの家に買われたのだ。ならば、買われた奴隷らしく、主人に誠心誠意尽くさなくては。

 当時のルーは性行為について具体的に知っていたわけではなかったが、父親に追い出され裏庭に面した隣家に逃げ込んだ際などに、寝室で行われていることはよく目にしていた。その家には未亡人がひとりで住んでいて、金で春を鬻いでいたのだ。

 ルーはある夜セデュの寝室に忍び入った。灯りの消された寝室にはカーテンの隙間から月明かりが斜めに射して、ルーの足元を照らしていた。

 ギシリとベッドに乗り上げると、眠っているセデュの微かな、そよ風のような寝息が聞こえる。

 夜衣を脱ぎ去ろうとして、青痣だらけの身体に思い至ったルーは手を止める。醜い身体を再び彼の前に晒すのは抵抗があった。たとえ夜目に見えなくとも、セデュにまた、思い出させてしまうかもしれない。

 ルーはまだ、恋心を自覚していたわけではない。だが、父親に殴られているさなか、鞭打たれているさなか、いつでも縋るように11歳のセデュの姿を思い出していた。自分に唯一優しくしてくれたおにいちゃんの姿と、慰めるような声と、壊れ物に触れるようなその掌を、思い出していた。

 何度も思い出していたから、ルーの中にはセデュが長いこと住みついて、焼き付いて、離れなくなっていたのだ。焼き鏝のように。刺青のように。忘れられない恋のように。

 隣に横たわり、夜具を掻き分けて寄り添う。

 セデュは気づかない。瞼を下ろしたその顔は、11歳の彼よりも精悍さを増して、仄かな色気も漂い始めていた。

 おそるおそる指を伸ばしたルーは、すっきりとした眉をなぞる。綺麗な鼻筋をなぞる。薄い唇を、なぞる。

 長い睫毛が震えて、茫洋とした瞳が開く。夢の中のようにルーを見つめて、ルーが何か言う前に、セデュの腕が伸ばされる。

 ぎゅうときつく抱き寄せられて、ルーはセデュの胸元に顔を埋める。甘い香りが微かにしている。香水はつけていないセデュの体臭だろうか。くらくらと酔わされるような思いでルーは目を閉じる。どくどくとセデュの鼓動が聞こえる。穏やかなその音が、ルーの鼓動と重なり合い、絡み合い、縺れ合い、ルーは重くなっていく瞼を下ろす。

 翌朝、メイドの悲鳴に起こされたルーはことの重大さにまだ気づいていなかった。

 寝乱れたベッドの上で足を絡ませたふたりが周りからどう見られるか、まだ理解していなかった。

 セデュの父が懇意にしている名門の令嬢――当時15歳の、オリンピア――とセデュとを婚約させたのはそれから間もなくのことだった。





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