第十話
「セデュイール・レヴォネ、逮捕かア。まさかコイツが犯人だったなんてなア。悪い事なんて知らねえよーな甘っちょろいカオしてんのに…」
「人間を見た目で判断してはいけない。外見は、その個人の本質を顕すものではないのだよ、バロット君」
パイプを燻らせながらホームズ気取りの探偵は言う。使用人のバロットは舌を出して肩を竦める。この男の使用人になってはや3年、舞い込む依頼は迷い猫探しやら浮気調査やら隣人トラブルやら、深刻さの欠片もないようなものばかりだ(当人たちにとっちゃ深刻なのかもしれないが)。この平和なコモ湖で殺人事件が勃発したってんで、すわ探偵の出番かと勇み立ってはみたものの、一向に依頼人の訪れる気配はないうちに犯人逮捕ときた。
まあこのノラクラ親父に、殺人事件の捜査なんて依頼するバカはハナからいないか、とバロットはため息ついて号外を畳む。夏だってのにここ数日ひどく肌寒い。薪代わりに暖炉にくべてやるか。…
コンコンと遠慮がちに扉を叩く音がする。チャイムは壊れたまま修理できていないのだ。収入が少なすぎるせいで。
コモ湖に散在するセレブ達とは雲泥の差がある境遇を憂いつつバロットが扉を開けるとそこには、目の覚めるようなブロンドの美青年が立っていた。
「…は? 天使?」
「え?」
「いいいい依頼人かね!? バロット客間に通しなさい! はやく!」
茫然と見つめ合うバロットとルーシュミネにしびれを切らしたような大声が室内から飛ぶ。
「お邪魔しまーす。ほら行くわよ、リーヴェ」
「あ、うん…」
ルージュに押し出されるようにしてルーシュミネがまず敷居を跨ぎ、つづいてルージュ、パール、ブルースにロッキーが扉をくぐる。
客間で待ち構えていた探偵――ノエル・フォンダリ――は彼らを鷹揚に迎え、立ち上がって握手を求める。
「やあ、ようこそ、わが城へ。どんな依頼ですかな? 浮気調査かな? 気になるあの子の恋人の有無が知りたいとか? あるいは不倫関係にある女性との痴情の縺れとか…」
ほっそりとした手をフォンダリに握られぶんぶん振られて若干引き気味になったルーシュミネをルージュが促し、依頼人(仮)はソファに腰を下ろす。
バロットはお茶の用意をしながらチラチラと彼らを眺める。可憐で優美で儚げな青年だ。見たこともないくらい肌が白い。血管が透けて見えそうだ…。不倫なんてしそうにもない。一体どこを見てあんな戯言を並べてるんだ、目がついてんのか、うちの旦那は…。
「今日は、今話題の殺人事件について、あなたに依頼があって来たのよ」
浮ついた空気を振り払うような、ルージュの決然とした声が言う。
ぴたりと笑顔を引っ込めたフォンダリは「ほうほう」と言って身を乗り出す。
ルージュに再び促され、ルーシュミネはきつく噛み締めていた唇を解いて、掠れた声でつづきを語った。
「セデュは殺してない。犯人じゃない。…だから、真相を、明らかにして、ほしいんです」
目が醒めたときは、まだ暗かった。空気はシンとして、遅れて生臭いにおいがツンと鼻を衝く。なにか重いモノに覆い被さられている。ルーシュミネはもぞもぞと身体を動かして、その重いものをどかそうと藻掻く。
頭がまた痛い。ガンガンする。飲みすぎたせいだ。たいして酒に強くもないのに、自棄みたいに飲んだせい。幸せな結婚式を見ていたらバカバカしくなって、…自分には一生手に入らないものにやさぐれて、自己嫌悪に塗れていたせいだ。
寝床に手を突くとふわりと反発する。ちくちく指に刺さるのは硬い葉っぱだ。こんもりと盛り上がった飼葉の上に、寝ていたようだ。どうして? いつ、潜りこんだのだろう、こんな場所に…。
ごろりと重いものが退かされてルーシュミネは自由になる。その際に掌から何かが滑り落ちてカラカラと飼葉の散る床に転がる。
ぱちぱち瞬く。夜の闇にだんだんと目が慣れてくる。ごろりと転がったのは、人の身体だ。俯せで、ぐったりと深い眠りに落ち込んでいるようで、ぴくりともしない。
床に着いた手がぬるりと滑る。手が何かで濡れている。生臭いにおいがさっきから気になる。踏み出そうとした足がずるりと滑って、床も何かで濡れているのに気が付く。黒い水たまりだ。掌についているのも、きっと同じものだろう。
鼻先まで掌をもっていたルーシュミネはそのにおいを嗅いで、ぼんやりと人影を見下ろす。その背中が切り裂かれ、黒い染みができているのが見える。水たまりだと思ったものは、彼から溢れ出す血だ。ヒッ、と呼吸が瞬間止まる。がくがく震えながらルーシュミネはそこから這い出る。厩の馬たちは寝静まり、シンとしている。管理会社らしき建物が近くにあるが、灯りは消えて閑散としている。さわさわと風が立ち、湖が月の光に照らされてきらめいている。まるで何事もなかったかのような、美しい夜だ。
土に手を突いて、血を擦りつけるようにしながらルーシュミネは考える。頭の中はぐるぐるしている。記憶は酒場で琥珀色の液体を煽ったところで途切れている。何か話しかけられたような気もする。肩に触れた手が汗ばんでいて、鬱陶しく思った、ような気もする。
顔を上げる。相変わらず人気はない。ふらふらと立ちあがったルーシュミネはどこに行くあてもなく歩き始める。一体どこに行けると言うのだろう。何も持たないろくでなしが、遂に殺人を犯したのか。どこまで自分は罪を重ねて、堕落するつもりなのだろう。どこまでセデュを、困らせるつもりなんだろう。
――ああ、でも、もう帰れないな。さすがに。
殺人者を、セデュに匿わせるわけにはいかない。人様に後ろ指差されるようなことを、あいつにさせるわけにはいかない。どうせいつかは出て行かなくちゃって思っていたんだ、それがちょっと早まったってだけだ。セデュはオリンピアとおそらくは近いうちに結婚するのだろうし、あの屋敷にルーの居場所はなくなる。とっとと追い出してほしいって思っていたのはルー自身だ。だから羽目を外してバカをやりつづけてきた。セデュが呆れて手を離すように仕向けてきた。だからってこいつはちょっと、尋常じゃあなさすぎるけど。
あのひとは誰なんだろう。夜の闇が邪魔して顔もよく見えなかった。どうして殺してしまったのだろう。何も思い出せない。…警察に、行かなくちゃ。ぼくがやったんだって白状して、それで、逮捕してもらって、罰を受けて、罪を償って…ぼくは死刑になるのかな。絞首刑かな。電気椅子? まさかこんな最期が待ってるなんて、予想もしてなかったな。これが罰なのかな。ずっと嘘を吐いて、バカなことして、セデュを振り回してきたツケが回ってきたってこと?
初めから、ぼくのものにならないひとを想い続けて、離れられないでいたせい?
ひとりで、忘れたいって思って、浴びるように酒を飲んで荒れて、見境なく誰とでも寝て、自分を何度も殺して…
ぜんぶぼくのせいなんだ。ぼくがバカだからいけないんだ。父さんのいうとおりだ。役立たずのろくでなし、とっとと死んでしまえばよかったのに。セデュが婚約した日に、死んでしまえればよかったのに。
とぼとぼとあてどなく湖畔沿いを歩く。モーターボートがいくつも繋がれている場所に出る。ぽかんと湖畔に浮かぶ月を眺めて、それに惹かれるように足を踏み出して、――
がっちりと二の腕を掴んだ力強い掌に、引き戻される。
「ルー、捜したぞ。今までどこに…、」
煌々とした月明かりに、驚愕に見開かれるセデュの瞳が浮かび上がる。血まみれの服と手をしたルーは傍らの男を茫洋と見上げ、へにゃりと不器用に笑った。




