一章 二話
空気が止まった。
ライン横のざわめきが、妙に遠く聞こえる。
六年ぶりだった。
見間違えるはずがない。
高坂真昼。
高校時代、三年間ずっと競い合った相手。
卒業と同時に、俺が一方的に切った相手。
その真昼が、目の前に立っていた。
スーツ姿。ポニーテールにまとめた黒髪。顔つきは高校の頃より落ち着いている。でも、その目だけは昔のままだった。
まっすぐで、逃がさない目。
「……柴崎?」
声も変わっていなかった。
強くて、芯がある。
「……久しぶり」
口から出たのは、それだけだった。
自分でも情けないと思う。六年ぶりに再会して、それだけか。
頭の中では、もっと色々なものがぐるぐるしていた。謝罪の言葉。説明。言い訳。六年間しまい込んでいたものが、一気に表面まで浮き上がってくる感じがした。
でも何も出てこなかった。
「久しぶり?」
低い声だった。
ああ、怒ってる。そりゃそうだ。
「知り合いか?」
岩崎班長が怠そうに口を開く。いつもの抑揚のない声だったが、目だけはちゃんと俺を見ていた。
真昼は俺から目を離さないまま答えた。
「高校の同級生です」
その言い方が妙に硬かった。他人行儀だった。
まあ当然だ。俺は何も言わずに消えたんだから。
「へえ」
岩崎班長が少しだけ面白そうな顔をする。余計なことを考えている顔だ。やめてほしい。
「じゃあ柴崎、お前が面倒見ろ」
「……は?」
「知り合いならやりやすいだろ」
やりにくいです。むしろ一番やりにくいです。
そう言いたかった。
でも。
「お願いします」
真昼が即答した。
目が笑っていない。完全に逃がす気がない顔だった。
最悪だ、と思った。
と同時に。
ほんの少しだけ、胸の奥が軽くなった気がした。
逃げ場がなくなった安堵なのか、それとも別の何かなのか。自分でもわからなかった。
昼休み。
社員食堂。
いつもの端の席で、定食を一人で食っていた。
向かいにトレーが置かれた。
顔を上げなくてもわかる。
「そこ、いい?」
もう座っている。聞く意味がない。
真昼だった。
「……好きにすれば」
制服じゃなくスーツ姿だからか、大人びた印象が強い。でも、俺を見る目の鋭さは昔のままだ。睨み方も変わっていない。
「聞きたいことがあるんだけど」
「だろうな」
「なんで黙って消えたの?」
直球だった。
箸が止まる。
食堂のざわめきが、やけに大きく聞こえた。
「別に消えたわけじゃない」
「消えたでしょ」
即答だった。強い。
「卒業して、連絡先変えて、進路も言わなくて。あれを消えたって言わないなら何?」
正論だった。言い返せない。
「……事情があった」
「その事情を聞いてるんだけど」
真昼の目がまっすぐ俺を刺す。昔からそうだった。逃がしてくれない。
事情。
何から話せばいい。話せる気がしない。話したとして、今さら何になる。
そういう言い訳が頭の中をぐるぐる回った。
進学しなかった理由。家のこと。父親のこと。奨学金の話すら持ち出せなかった理由。
全部話そうと思えば話せる。でも、それをこの食堂で、六年ぶりに再会した相手に話すのかという気持ちが邪魔をした。
同情されたくなかった。
あいつに限っては、特に。
「今は関係ないだろ」
言った瞬間、真昼の表情が固まった。しまったと思った時には遅い。
「関係ない?」
声が冷えた。
「私、大学でも勝負続けるつもりだったんだけど」
その言葉が、胸に刺さる。
知っていた。あの頃から。真昼にとって、俺との勝負はただの競争じゃなかった。続いていくものだと思っていた。
なのに俺は何も言わずに消えた。
理由を話す勇気もなく。向き合う言葉も持てないまま。
「……悪かった」
それしか言えなかった。
情けなかった。六年経っても、結局同じだ。
真昼はしばらく黙っていた。
何かを言いかけては、飲み込んでいるのがわかった。
やがて、小さく息を吐く。
「ほんと最低」
否定できない。
「でも」
真昼がぽつりと続ける。
「今はここにいるんだね」
責めているわけじゃない声だった。
ただ、確認しているような。
六年間、ここにいたんだ、と。
怒鳴りつけてくれた方がよかったかもしれない。こういう言い方の方が、ずっと堪える。
「……そうだな」
それだけ答えた。
真昼はそれ以上何も言わなかった。定食を静かに食べ始める。俺も箸を動かした。
二人とも、しばらく何も言わなかった。
食堂のざわめきだけが続く。
妙な昼休みだった。
怒鳴られるより、詰められるより、この静けさの方が堪えた。
少し離れた席。
小宮陽菜が、こちらをじっと見ていた。
気づいたのは、向こうが気づかせようとしていたからだろう。
(……誰ですか、あの人)
直人先輩があんな顔をする相手。
見たことない。知らない。
先輩の過去に、自分の知らない人間がいる。
なんか、面白くない。
陽菜は味噌汁を一口飲んで、箸を置いた。
午後。
ラインが一旦止まったタイミングで、岩崎班長が欠伸を噛み殺しながら近づいてきた。
「柴崎、午後の工場案内頼むわ」
「……普通それ、班長がやりますよね」
即座に返すと、岩崎班長が少しだけ目を逸らした。
「まあ、そうなんだけどな」
「なんで俺なんですか」
「お前、次期班長候補だろ。こういう経験も必要だって」
「それ、理由になってますか」
「なる」
断言した。
でもその一瞬、視線が微妙に泳いでいた。
「……もしかして、めんどくさいだけですか」
「は? そんなわけないだろ」
返事が少しだけ早かった。
岩崎班長はそのままそっぽを向いて、「頼んだぞ」とだけ言い残してライン方向へ歩いていった。背中に「めんどくさい」と書いてあるような歩き方だった。
しぶしぶ引き受けた。
実習生は三名。
田中という男と、木下という女と、真昼だった。
田中は最初から愛嬌があって、案内を始める前から周囲の作業員に話しかけていた。木下はおとなしいが、きちんとメモを取っている。二人とも、悪い印象はない。
真昼はその中の一人として、他の二人と同じように立っていた。
特別なことは何もしない。目も合わせてこない。昼休みのことなど最初からなかったように、実習生の顔をしている。
それはそれで、やりにくかった。
「じゃあ順番に回ります。わからないことがあれば聞いてください」
検査ライン。組み付け工程。品質管理の掲示板。安全通路。ひとつずつ案内しながら歩く。
他の二人は素直にメモを取りながらついてくる。真昼も同じだった。
ただ、真昼のメモの取り方は違った。
田中や木下が要点をさらっと書いているのに対して、真昼は手が止まらない。俺が説明している最中も、歩きながらも、何かを書き続けている。言ったことすべて書こうとしている。そういうやり方だった。
要領がいいとは言えない。でも、見ていれば伝わってくる。
全部、自分の中に入れようとしている。
昔からそうだった。テスト前に図書館に残って、誰よりも遅くまでノートを広げていた。そのくせ要領よくまとめるのが下手で、ページが文字で埋まるまで書き続ける。
変わっていない。
そう思ったら、少し可笑しいような、嬉しいような、変な気分になった。
案内は淡々と進んだ。大きなトラブルもなく、余計なやり取りもなく、一時間ほどで終わった。
そのまま解散になった。
実習生たちが帰り支度を始める。
田中が「ありがとうございました」と素直に頭を下げた。木下も同じだった。
真昼はさっさと荷物をまとめて、他の二人と並んでゲートへ向かった。特別なことは何もなかった。
俺もその場を離れようとした時。
真昼が少しだけ立ち止まった。振り返る。一瞬、目が合う。
何も言わない。
でも今日の昼休みの、「ここにいるんだね」という言葉が頭の中に残っていた。
非難でも同情でもない、ただ確かめるような声。
真昼はそのまま前を向いて、ゲートの外へ歩いていった。
その背中を見送りながら思う。
六年前は、俺が消えた。
今度は逃げ場がない。
それがどういう意味を持つのか、まだよくわからなかった。




