一章 一話
四月の中旬だった。
アラームが鳴るより先に目が覚めた。
枕元のスマホを見る。午前六時四十分。
アラームまであと二十分ある。
いつもより早く起きてしまった。
薄暗い天井を少しの間見上げる。
懐かしい夢を見ていた気がした。それで目が覚めたのかもしれない。
冬の教室。オレンジ色の夕陽。答案用紙を叩きつける音。
あいつの声。
懐かしいな、と思った。それからすぐに、胸の奥が少しだけ重くなった。
悪いことをした、と今でも思っている。
何も言わずに消えた。進学するものだと信じていたあいつに、就職を打ち明けることもできなかった。向き合う言葉を持てないまま、ただ逃げた。
しかも俺が勝ち続けていたのは、純粋な競争心からじゃなかった。
恵まれた場所に立っているあいつに、ただ勝ちたかった。それだけだった。
あいつはそれを知らないまま、ずっと俺の後ろにいた。
最悪だ、と思う。
思うけど、今さらどうしようもない。
早く起きても仕方ないので、しばらくそのまま天井を見ていた。二十分、ぼんやりと。それからアラームが鳴る前にスマホを取り上げてアラームを切った。
布団から出ると、部屋の空気が冷たく肌に触れた。
四月とはいえ、朝はまだ冷える。
ワンルームの狭い部屋。カーテンの隙間から差し込む朝の光はまだ弱い。壁際に積んだ漫画の背表紙が、うっすら見える。それ以外に、これといって何もない部屋だった。
高校を卒業した春から、ずっとここだ。
入社が決まった時、父親に一人暮らしをしたいと言った。工場から通えない距離じゃないから、別に実家に残ってもよかった。でも、出たかった。なんとなくそう思った。理由を細かく言葉にできたわけじゃない。ただ、自分の場所を作りたかったんだと思う。
父親は特に反対しなかった。
「そうか」とだけ言った。
引越しの日も来なかった。仕事だったから仕方ない。
それから六年間、この部屋で起きて、工場に行って、帰ってくる。それを繰り返してきた。
冷蔵庫からペットボトルの水を取り出して一口飲む。シンクには昨日使った食器が一枚。洗うのは帰ってからでいい。テーブルの端には、コンビニで買ったカップ麺の空き容器がある。
誰にも文句を言われない生活は気楽だった。
その代わり、誰も何も言ってくれない。
静かな部屋だった。
シャワーを浴びて、私服に着替える。鏡を数秒見て、それ以上は見ない。朝飯は通勤中にコンビニで買ってすませか、食べないか、どちらかだ。今日は面倒だから食べないでおこう。
私服のまま車に乗り込み、エンジンをかける。いつもの通勤路。いつもの信号。いつもの工場。巨大な建屋が朝焼けの中に立っている。見慣れた景色だった。
工場の更衣室で作業着に着替える。胸元に会社のロゴ。安全靴を履くと、金属の硬い感触が足に馴染む。これを履くたびに切り替わる。仕事の顔になる。
高校を卒業して、そのまま今の会社に入った。タトヨブレーキシステムズ。自動車のブレーキ部品を製造する工場だ。技能職。現場の人間として、ここ六年を過ごしてきた。
最初の一年は覚えることだけで精一杯だった。現場のルール、機械の扱い、先輩たちの動き方。学校の勉強とは違う種類の頭の使い方を、一から叩き込まれた。
二、三年目に入ったあたりで、ようやく仕事が「わかってきた」と思えた瞬間があった。
ラインの流れが見えるようになった。どの工程でどんな不具合が起きやすいか。部品のどこを最初に見るべきか。ベテランの先輩たちが無意識にやっていることの意味が、少しずつ体にしみ込んできた。
気づけば六年が経っていた。今の役職はリーダー。検査グループの中堅として、ラインの管理と後輩の指導を任されている。大した肩書きじゃない。でも、ここで積み上げてきたものは確かにある。
更衣室を出て現場へ向かう。工場の独特な匂いが鼻をつく。油の匂い。鉄の匂い。機械の熱気。もう慣れた匂いだ。
最初の頃は、この匂いだけで気が重くなった。家に帰っても、作業着に染みついた匂いが取れなくて、憂鬱だった。
今は何も感じない。むしろ、この匂いを吸い込むと頭が切り替わる。
「おはようございます!」
元気な声が飛んできた。
小宮陽菜だった。
小柄な体に、耳に少しかかる具合のショートカットで茶髪。ぱっちりした目が人懐っこい印象をそのまま顔に出したような子だ。俺と同じく高卒で入社して、今年で三年目になる。俺が最初に現場を教えた後輩でもある。よく喋る。よく笑う。現場のおっさん連中にも妙に可愛がられている。
「おはようございます、先輩!今日も早いですね」
「お前も大概早いな」
「先輩に負けたくないので」
「別に競争じゃない」
「えへへ、先輩今日なんかぼんやりしてませんでした?」
「してない」
「してます。絶対なんか考えてたでしょ」
こういうところだけやけに鋭い。
「ほっとけ」
「はーい」
ちっとも気にしていない返事をしながら、陽菜は笑う。この空気の軽さが、現場では助かる。
ライン横の朝礼スペースに人が集まった。
岩崎慎吾が欠伸を噛み殺しながら前に出る。検査G班長。三十二歳のはずだが、顎に無精ひげを生やしていて、実際より五つは上に見える。いつもどこかけだるそうで、喋り方もゆっくりしている。でも仕事の話になると別人みたいにちゃんとしていて、後輩の面倒もちゃんと見る。口で言わないだけで、見ていないわけじゃない。そういう先輩だった。
「じゃあ、今日の確認な。生産数はいつも通り。安全は言わなくてもわかってると思うけど一応な」
淡々と進む。最後に係長の真壁恒一が一歩前に出た。
四十八歳。検査グループに長く勤めてきた叩き上げで、白髪混じりの短い髪に、常に表情が引き締まっている。愛想笑いというものを見たことがない。現場で何十年も積み上げてきた人間だけが持つ、静かな重さがある。
「以上だ」
それだけだった。
余計なことは言わない。でも、その二文字に誰も異論を挟まない。現場全体を把握している人間の空気がある。長く一緒にいるとわかる。真壁は言葉より行動で示す人間だ。
朝礼が終わると、すぐ持ち場に入る。
ラインが動き始める。流れてくるブレーキキャリパーを一つずつ確認していく。目視。寸法確認。打痕確認。異常なし。次。異常なし。次。
単純作業に見える。でも、単純じゃない。一つ見逃せば、その先に不良が流れる。車の安全に関わる部品だ。責任は重い。慣れても、それだけは変わらない。
ブレーキキャリパーはブレーキパッドを挟み込んでタイヤの回転を止める、車の止まる力を直接受け持つ部品だ。形は単純に見えるが、製造上の僅かな歪みや傷が、実際の走行で致命的な問題を起こす可能性がある。だから検査は厳しい。目視と機械を組み合わせて、何重にも確認する。
それを六年繰り返してきた。
慣れと精度は、大体比例する。体(目)が覚えた分だけ、正確になる部分がある。どこを見るか。どんな形状が怪しいか。そういうことが、考えなくてもわかるようになってきた。
「相変わらず速いですねえ」
横から陽菜が覗き込んでくる。
「見て覚えろ」
「先輩、教え方ほんと雑ですよ」
「見て盗むのが現場だ」
「昭和ですか?」
言い返してくる。生意気だ。でも嫌じゃない。
陽菜は飲み込みが早い。最初に教えた時から、手先の器用さは目立っていた。今では俺が何も言わなくても、ある程度自分で判断して動ける。
そういう後輩は助かる。
そんな日常だった。いつも通りの朝。いつも通りの現場。
今朝の夢も、いつの間にか遠くなっていた。
昼前。ラインが一旦止まり、岩崎が眠そうな目のまま声を上げる。
「ちょっと全員集まれ」
トラブルかと思ったが、違った。岩崎の隣に数人、見慣れない顔が立っている。スーツ姿。緊張した顔。そういえば今日から本社の実習生が入ると聞いていた。
「本社から実習で来た新入社員な。しばらくここで現場覚えてもらうから、よろしく頼む」
毎年この時期になると来る。
大学を出て、そのまま本社に入った連中が、配属前に現場を「体験」しに来る。
悪く言うつもりはない。でも、正直なところを言えば、あまりいい印象はなかった。
毎回同じだった。慣れない手つき。要領を得ない質問。三週間もすれば別の部署に消えていく。
しかも向こうは総合職だ。現場で汗をかいても、最終的に行き着く場所は俺たちとは違う。
大学で何を学んできたのかは知らないが、現場のことは何も知らない状態で来る。それでいて数年もすれば管理職になる。
それが会社というものだとわかっている。
わかっているが、面白いとは思わない。
毎年のことだから、特別に何かするつもりもなかった。
一人ずつ名乗っていく。適当に聞き流していた。
三人目。
聞き慣れた声がした。
「高坂真昼です。本日からお世話になります」
止まった。
時間が止まった。
顔を上げる。
間違いなく、高坂真昼だった。
高校の頃は、背中まで伸ばした黒髪だった。それが今は、工場に合わせてか後ろでまとめてポニーテールにしている。首元がすっきりして、顔の輪郭がより際立って見える。整った目鼻立ちはそのままで、むしろ昔より落ち着いた印象になっていた。クールに見える、という点は変わっていない。いや、六年分だけ、よりそうなっていた。
スーツ姿だ。でも、その目だけは昔のままだった。
真昼も俺に気づく。一瞬、目が見開かれる。驚き。困惑。そして怒り。全部が混ざった顔。
「……柴崎?」
六年ぶりに聞く声だった。
今朝感じた申し訳なさが、ぶり返してくる。
でもそれより先に、別の感情が沸き上がってきた。
懐かしさや嬉しさ、悔しさがといった複雑な感情だ。
止まった時間が動き出した。そんな気がした。




