一章 プロローグ
人は最初から、選べる未来の数が違う。
生まれた場所。育った環境。気づかないうちにそういうものが、人生の幅を決めている。
俺がそれをはっきり理解したのは、高校三年の冬だった。
いや、正確には違う。
ずっと前から知っていた。
ただ、認めたくなかっただけだ。
だから俺は、あいつに勝ち続けた。
「――また負けた!」
放課後の教室に、聞き慣れた声が響く。
答案用紙が机を叩く音。バンッ、と乾いた音が冬の空気に消えていく。
高坂 真昼。
背中まで伸ばした黒髪。整った目鼻立ち。教室にいると、どこか周囲と切り取られているような、そういう見た目の女だった。クールに見える。実際、普段はそうだ。感情をあまり表に出さない。でも勝負ごとになると、別人みたいに変わる。
悔しそうに俺を睨みながら、立ち上がる勢いで身を乗り出してくる。
「なんで毎回勝てないのよ!」
「知らないよ」
俺は自分の答案を軽く折りたたみながら答えた。
三年最後の実力テスト。結果はいつも通り。
一位、柴崎 直人
二位、高坂 真昼
今回の差はたった三点だった。
「国語さえミスらなければ逆転してた。絶対」
「取れてない時点で負けだろ」
「うっさい」
真昼は頬を膨らませた。
このやり取りも、もう数えきれないくらい繰り返してきた。高校一年の最初の中間テスト。あの時も俺が一位で、真昼が二位だった。その次のテストで、真昼が突然声をかけてきた。
「次は勝つから」
それだけ言って、去っていった。
そこから三年間、ずっとそうだった。
真昼は頭が良かった。要領がいいタイプじゃない。むしろ不器用なくらい愚直に努力するタイプだった。授業中は誰より集中していた。休み時間も問題集を開いていた。放課後の図書館には、大抵あいつがいた。
そしてあいつは、恵まれていた。
俺には持てなかったものを、あいつは持っていた。
何が違うのかを言葉にするのは難しい。でも見ていればわかる。進学することを誰も疑わない空気。将来の選択肢を当たり前のように並べられる余裕。悩んだとしても、それが贅沢な悩みだと気づいていない無邪気さ。
あいつの世界では、「大学に行く」は選択肢のひとつじゃない。
決まっていることだった。
俺の世界では、違った。
なのに、あいつは全部持ったうえで、まだ努力する。
それが腹立たしかった。
お前はすでに持っている。それでも足りないと言うように机に向かい続けて、負けるたびに悔しがる。
お前が負けたところで、失うものなんて何もないだろう。
そう思っていた。
だから勝ちたかった。
勉強が好きだったわけじゃない。点数に意味があったわけでもない。ただ、高坂 真昼に勝つことだけが目的だった。
恵まれた場所に立っているあいつより、俺の方が上だと証明したかった。
それだけだった。
お前が当たり前に持っているものを、俺は持っていない。でも、ここでは負けない。
その一点だけが、踏ん張る理由だった。
勝つたびに、何かが埋まった気がした。
本当は埋まっていなかったとしても、そう思わなければやってられなかった。
「次こそは勝つ」
真昼は答案を握りしめながら言う。
毎回本気だった。一度も冗談じゃなかった。
「毎回そう言ってるな」
「次は本当に。大学では絶対負けないから」
その一言で、胸の奥が重くなった。
大学。
真昼にとってそれは、当然続く未来の話だ。卒業して、進学して、もっと上を目指す。選択肢があることに気づいてすらいない顔で言う。
羨ましかった。
その言葉が自然に出てくることが。迷う素振りすら見せないことが。「大学に行く」が当たり前の世界で生きていることが。
俺にはその当たり前がなかった。
最初から、なかった。
「直人はどこ受けるの?」
窓の外へ視線を逃がした。
グラウンドが夕陽で赤く染まっている。サッカー部の声。吹奏楽部の音。どこかで誰かが笑っている。いつもの放課後。たぶん、もうすぐ終わる景色。
「まだ決めてない」
嘘だった。
もう決まっていた。
進学しない。卒業したら働く。就職先も決まっている。担任にはもう伝えた。
でも真昼には言えなかった。
言ったらどんな顔をするだろう。
驚くだろうか。それとも、なんで、と聞くだろうか。理由を話せば、あいつは困った顔をするかもしれない。同情されるのが一番嫌だった。あいつに限っては、特に。
言えば終わる。
この勝負が。この場所が。全部。
あいつに勝ち続けることだけが、俺の踏ん張る理由だった。それがなくなったら、何も残らない気がした。
「嘘。柴崎が決めてないわけない」
真昼は鋭い。こういうところだけ、妙に勘がいい。
「そのうちな」
「なによそれ」
不満そうに頬を膨らませて、でもすぐに少し笑う。
「まあいいけど」
そう言って、指を一本立てた。
「絶対、同じとこ受けなさいよ。大学で絶対あんたに勝つんだから」
迷いのない顔だった。これからも続くと信じている目だった。
俺はそれに、何も言えなかった。
あいつには、選べる未来があった。
俺には、なかった。
それだけのことだ。
努力が足りなかったわけじゃない。頭が悪かったわけでもない。ただ、最初に置かれた場所が違った。それだけで、行ける場所が変わる。
わかっていた。
ずっとわかっていたのに、認めたくなかった。
だから勝ち続けた。
それだけが、俺にできる唯一の反論だった。
でも結局、反論にもならなかった。
「聞いてる?」
「……ああ」
「次は勝つから」
いつもの宣言。いつもの顔。
次があると思っていたんだろう。
俺もどこかで、そう思っていたかった。
でも次は来なかった。
卒業式の後、俺は誰にも何も言わずに就職した。説明する言葉が見つからなかった。向き合う勇気もなかった。
ただ消えた。
真昼に一度も勝たせないまま。
そして六年が経った。




