一章 十二話
実習最後の日の朝は、穏やかだった。
四月の終わりに差し掛かった頃で、空気が少し柔らかくなっていた。朝の工場の匂いも、最初の頃より重く感じなくなっていた。慣れたのか、季節が変わったのか。どちらもかもしれない。
更衣室の前で田中が真昼に話しかけているのが見えた。
「最終日、なんかあっという間だったね」
「そうですね」
「前行ったの定食屋、また行こうよ。配属されてからでも」
「……配属がどこになるかわからないですよ」
「近かったらってことで。な、木下」
「うん。またご飯行きたい」
真昼が少し間を置いてから、「わかりました」と言った。
敬語は抜けていないが、会話に参加している。
一週間前には考えられなかった光景だった。
ラインが動き始めた。
洗浄工程の前を通ると、田村さんが真昼に声をかけていた。
「今日で終わりか」
「はい。お世話になりました」
「こっちこそ。あの手順変更、来週から本格導入することになった」
真昼が少し目を見開いた。
「……そうなんですか」
「正直、最初は面倒なやつだと思ったが」
田村さんが少しだけ笑った。皺の深い、ぶっきらぼうな笑い方だった。
「見る目があるのは本物だった。どこに行っても、そのまま行け」
真昼がしばらく黙っていた。
「……ありがとうございます」
頭を下げた。
深く、丁寧に。
田村さんは「ああ」とだけ言って、また作業に戻った。
田村さんらしかった。長い言葉は使わない。でも、言う時はちゃんと言う。
俺はその場面を、ラインの端から見ていた。
陽菜が横に来た。
「田村さん、デレましたね」
「最初からそういう人だ。きっかけがなかっただけだ」
「先輩がきっかけ作ったんですけどね」
「田村さんと高坂が変わったんだ。俺は確認しただけだ」
陽菜が少し俺を見て、また真昼の方を見た。
何も言わなかった。
昼休憩。
食堂で三人並んで食べているのが見えた。
田中が何か話して、木下が笑う。真昼がそれを聞きながら、小さく笑っていた。
三週間で、初めて見る光景だった。
俺はいつもの端の席で、それを横目で見ていた。
「先輩、今日も一緒にいいですか」
陽菜がトレーを持って立っていた。
「どうぞ」
陽菜は座った。しばらく黙って食べていた。
「真昼さん、最初と全然違いますね」
「そうだな」
「よかったです」
声は明るかった。でも、どこか張っていた。
陽菜は真昼の方を一度だけ見て、また定食に目を落とした。
何かを抑えているような、でも抑えきれていないような。そういう顔だった。
何も聞かなかった。
午後。
休憩中、真昼が俺の近くに来た。
「あの」
「なんだ」
真昼が少し間を置いた。
視線がわずかに泳いでいる。
「……三週間、ありがとうございました」
「ああ」
「いろいろ、助けてくれて」
「仕事だ」
「仕事じゃないことも、あったけど」
俺は何も言わなかった。
仕事じゃないことも、確かにあった。
でも、やって良かった。
真昼がスマホを取り出した。
「……連絡先、交換しませんか」
「いいが、なんで」
「別に、業務上必要な時が来るかもでしょ」
「そうか」
「配属先がどこになるかわからないし。現場のこと聞きたい時とか、あるかもしれないし」
「そうだな」
「……そういうことだから」
真昼は俺の方を見ないまま、スマホを差し出した。
耳が赤かった。
俺何も言わずにスマホを取り出し、連絡先を交換した。
実は今日、自分から言おうと思っていた。
このまま終わるのは違う。俺は実習中の真昼を見て、そう思っていた。
でも真昼が先だった。
真昼がスマホを操作しながら、ぼそりと言った。
「お礼を言う相手の連絡先も知らないのは、おかしいでしょ」
「俺は連絡先交換出来て嬉しいよ」
「うるさいです」
そっぽを向いた。
耳の赤さが、さっきより増していた。
その一部始終を、少し離れた場所から陽菜が見ていた。
スマホを操作する二人を見て、何かを察した顔だった。
いつもなら何か言ってくる。
でも今日は、静かだった。
口元だけ、微かに結んでいた。
終業時間。
ラインが止まった。
実習生たちが荷物をまとめ始める。
田中と木下が真昼に声をかけていた。三人でしばらく話して、笑い合っていた。
作業員の何人かが真昼に挨拶した。
「お疲れさん」
「またな」
真昼がその一つひとつに、ちゃんと頭を下げていた。
三週間前の真昼とは、別人みたいだった。
いや、別人じゃない。
ただ、届くようになっただけだ。
田中と木下と並んでゲートへ向かいながら、真昼が一度だけ振り返った。
俺の方を見た。
目が合う。
真昼はすぐに前を向いた。
陽菜が俺の横に立った。
「連絡先、交換したんですか」
「業務上の話があるかもしれないからな」
「……そうですか」
陽菜は少し間を置いた。
「先輩って、高坂さんのこと、どう思ってるんですか」
「わからない、けど放っておけない」
「本当に?」
「ああ」
陽菜はしばらく黙っていた。
「……そうですか」
それだけ言って、更衣室の方へ歩いていった。
いつもと違う背中だった。
いつもなら最後に何か言ってくる。今日は何も言わなかった。
その背中を見送りながら、何か言うべきだったかと思った。
でも、何を言えばよかったのかはわからなかった。
ゲートの外。
田中たちと別れた真昼が、一人で歩いていた。
夕陽が長く伸びて、アスファルトに影を作っている。
三週間。
あっという間だった。
柴崎と、もう会えないかもしれない。
そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ重くなった。
自分でも気づいていなかった感覚だった。
三週間前は、逃げたあいつにまだ怒っていた。
でも今は。
真昼は立ち止まって、工場の建屋を見上げた。
あの人がここにいる。
あの人が作ったものがここにある。
三週間で見えたものが、頭の中に並んでいた。
現場の空気。人の動かし方。正しさの届け方。
全部、柴崎から教わったことだった。
真昼はしばらく工場を見ていた。
それから、静かに息を吐いた。
「よし」
小さく、でもはっきりと。
自分の中で何かが決まった音がした。
夕陽の中で、真昼はまた歩き出した。




