一章 九話
次の日。
午前中はリーダーとしての作業がある。ライン全体の進捗確認、品質記録のチェック、次工程への連絡。現場を歩き回りながらこなしていく仕事だ。
でも今日は、いつもより足が一方向に向いていた。
真昼のいるラインだ。
昨日直接話して、向こうは「関わるな」と言った。でも今日も午後から担当につく予定で、岩崎班長にはすでに話してある。
だから監視しているわけじゃない。
そう自分に言い聞かせながら、ラインの端を歩いていた。
真昼は黙って作業していた。
昨日より表情が固い。目が、どこか虚ろだ。手は動いているが、いつものような鋭さがない。
疲れているのか。
昨日のことを引きずっているのか。
どちらもかもしれない。
「どうせ実習が終わったら、私と関わることなくなるんでしょう」
昨日の声が、頭の片隅でまだ鳴っていた。
答えられなかった。
それが今も、少しだけ重かった。
午前中盤。
ラインの流れが少しだけ詰まった。
前工程からの部品送りが遅れていた。よくあることだ。担当の作業員が無線で確認を入れている。
その間、ラインが数秒止まった。
その瞬間だった。
真昼が、ラインのコンベア脇にしゃがみ込んだ。
何かを見ている。
コンベアの下、フレームの隙間に何かが落ちたらしかった。工具か、部品か。真昼の手がそちらに伸びた。
止まれ、と思った瞬間には体が動いていた。
「高坂っ」
鋭く呼んだ。
真昼が顔を上げる。
その一瞬に俺は真昼の腕を掴んで、引き戻した。
真昼の手が、コンベアのフレームに触れる寸前だった。
「な、」
「動くな」
ラインが再起動した。コンベアが動き始める。さっき真昼の手があった場所で、ベルトが静かに回り始めた。
周囲の作業員が振り返った。
「何があった」
「問題ないです」と俺は答えた。「少し席を外します」
真昼の腕を引いたまま、休憩室へ向かった。
真昼は何も言わなかった。
引かれるまま、ついてきた。
休憩室に入ると、人はいなかった。
椅子を引いて、真昼を座らせた。
腕を離して、手を確認する。指先、手の甲、手首。傷はなかった。
「怪我はないか」
「……ないです」
「どこも痛くないか」
「痛くない、です」
声が少し震えていた。
怖かったのかもしれない。触れる寸前だったとわかったのかもしれない。
六年この仕事をしてきて、ヒヤリとした場面は何度かある。慣れているはずの自分でさえ、そういう瞬間は後から足が震える。真昼が今どんな状態か、想像はついた。
俺は向かいの椅子を引いて、座った。
しばらく何も言わなかった。
真昼も黙っていた。
窓の外で、工場の機械音が低く響いている。
「コンベアが動いている時は、手を入れるな」と俺は言った。「止まっているように見えても、再起動する。挟まれたら指じゃ済まない」
「……わかってます」
「わかっていてもやる時がある。余裕がなくなると判断が鈍る」
真昼が少し顔を伏せた。
余裕がなかったのだろう。それは見ていればわかった。
「昨日話したこと」と俺は続けた。「聞き方を変えること、田中たちに話しかけること」
「……今それを言いますか」
「今だから言う」
真昼は何も言わない。
「現場は一人で回せない。隣の人間が何をしているか、次の工程で何が必要か、それを把握しながら動く。それには周りとの関係が要る」
「仕事の話と人間関係は別です」
「現場では一緒だ」
「作業を覚えれば、」
「作業だけじゃない。俺が六年かけて体で覚えたことだ」
真昼がゆっくりと顔を上げた。
「……聞き方を変えればよかったんですか」
「それだけじゃない。でも入口にはなる」
「じゃあなんで最初から教えてくれなかったんですか」
俺は少し黙った。
「俺も、踏み込むのが遅かった」
真昼が、また顔を伏せた。
長い沈黙があった。
「私だって」
小さな声だった。
「好きでこうなってるわけじゃないです」
俺は何も言わなかった。
「話しかけたいと思ったことはある。でも、どうすればいいかわからなくて。聞き方を変えようと思っても、何が正しいのかわからなくて。そうしているうちに距離ができて、もう取り返せない気がして」
声が少しずつ細くなっていった。
「大学の時もそうだった。高校の時は、あなたがいたから何とかなってた。勝負することで繋がれてたから。でも大学に行ったら、そういう相手がいなくて」
俺はただ聞いていた。
その言葉が、じわじわと染みてきた。
高校の時は、あなたがいたから。
勝負することで繋がれてたから。
昨日「あいつにとって俺は何だったんだろう」と思った。
その答えが、今ここにあった気がした。
「それで、慣れたと思ってた。一人が当たり前だって。でも」
真昼の肩が、少し揺れた。
「全然慣れてなかった」
声が詰まった。
しばらくの沈黙。
真昼は俯いたまま、唇を噛んでいた。
泣くまいとしているのが、見ていてわかった。
でも、限界だった。
三週間分の何かが、静かに崩れていく音がした。
「……助けて」
ほとんど音にならない声だった。
自分でも気づかないうちに出てしまったような、そんな声だった。
涙が一粒、真昼の頬を落ちた。
真昼は慌てたように目元を拭った。
「ごめんなさい、なんか変なこと」
「変じゃない」
「でも」
「変じゃないから、無理するな」
真昼が口を閉じた。
俺も何も言わなかった。
ただ、向かいに座っていた。
それだけでいい気がした。
しばらくして、真昼が小さく息を吐いた。
目はまだ赤かったが、声は少し落ち着いていた。
「……どうすればいいですか」
「田中に話しかけろ。今日の昼休みに」
「何を話せばいいんですか」
「なんでもいい。天気でも、飯でも」
「そんな話題で」
「十分だ」
真昼は少しの間、俯いていた。
「……やってみます」
小さな声だった。
でも、昨日より本物だった。
俺は立ち上がった。
「午後から俺がつく。わからないことがあったら聞け」
「……はい」
真昼は目元を拭ったまま、小さく頷いた。
少し間があった。
「高坂」
「なんですか」
「そんな顔、久しぶりに見た」
「……え」
「俺に負け続けてた頃以来だな」
真昼の顔が、みるみる赤くなった。
「な、っ……今のは別に、そういうんじゃ、」
「そうか」
「そういうんじゃないです!」
「わかった」
「全然わかってないですよね!?」
声が裏返った。
さっきまで泣いていたのと同じ人間とは思えない剣幕だった。
俺は特に表情を変えなかった。
でも、少しだけ肩の力が抜けた。
この顔の方が、ずっとらしい。
「取り合えず休め。午後から来るから」
「……来なくていいです」
「来る」
「もう、」
真昼は両手で顔を覆った。
耳まで赤かった。
俺は休憩室を出た。
廊下に出ると、工場の機械音が戻ってくる。
ラインは動いている。
いつも通りの午前中だった。
でも、何かが少しだけ動いた気がした。
昨日は答えられなかった。
でも、今ならわかる。
実習が終わっても、関わることなくなるかどうか。
それは、俺が決めることだ。




