一章 八話
夜勤明けの翌朝は、体が重い。
週が変わって昼勤に戻る月曜日は、特にそうだ。夜勤の最終日が金曜の深夜で、土日で体を戻して、月曜の朝八時半に出勤する。完全には切り替わらない体を引きずって、工場に来ることになる。
更衣室で作業着に袖を通しながら、眠気を振り払った。
一週間ぶりの昼勤だ。
現場に入ると、岩崎班長が欠伸を噛み殺しながら近づいてきた。
「眠そうだな、柴崎」
「昼勤に戻ったばかりなんで」
「先週、ほぼ毎日早く来てたからじゃないか?」
俺は少し間を置いた。
「……松本班長に手伝いを頼まれて」
「そうらしいな」岩崎班長が少しだけ口の端を上げた。「松本が喜んでたぞ。柴崎が手伝ってくれたおかげで楽だったって」
「それはよかったです」
「なんで俺の時はやってくれないんだ」
「声かけてくれれば」
「お前から来いよ」
「岩崎班長がやってくれって言ったら行きます」
岩崎班長はやれやれという顔をして、腕を組んだ。
「まあそれはいい。でも、ほぼ毎日夜勤明けに残ってたんだろ。体は大丈夫か」
「問題ないです」
「そうか」
岩崎班長はそれ以上は掘り下げなかった。でも、ちゃんと聞いてきた。それがこの人のやり方だった。深く踏み込まない。でも、見ていないわけじゃない。
陽菜が横から顔を出した。
「おはようございます、先輩。顔が死んでますよ」
「昼勤に戻ったばかりだからな」
「そうですね、私もきついです」
陽菜は少し眠そうに目をこすってから、それきり朝礼の方へ歩いていった。
岩崎班長がいつもの眠そうな顔で前に出る。
「じゃあ今週の確認な。三週目に入ったから実習生も本格的にラインに入ってもらう。担当は引き続き頼む」
実習も残り一週間だ。
一通り話が終わったところで、俺は岩崎班長に近づいた。
「少しいいですか」
「なんだ」
「高坂の担当、俺がつきたいんですが」
岩崎班長が少し目を細めた。欠伸をひとつ噛み殺してから、ゆっくり俺を見る。
「お前が直接つくのか」
「はい」
「今まで他の担当に任せてたのに、急にどうした」
「三週目だし、仕上げとして」
「……ふーん」
岩崎班長はしばらく俺の顔を見ていた。深く聞かないのが岩崎班長らしかった。
「まあ、お前がそう言うならいいけどな」
「ありがとうございます」
「ただ」
岩崎班長が少しだけ声を落とした。
「あんまり無理すんなよ」
「無理はしてないです」
「そうか」
岩崎班長はそれきりラインの方へ歩いていった。
ラインが動き始めた。
一週間ぶりに、真昼の作業している姿を直接見た。黙々と手を動かしている。担当の作業員とは最低限の言葉しか交わしていない。
田中と木下は隣のラインにいた。二人で何か話しながら作業している。
三人の距離は、一週間前より広がっていた。
夜勤の間、松本から話を聞き続けた。状況は変わっていないとわかっていた。でも実際に目で見ると、改めてそれがわかった。
昼休み。
真昼が一人で食堂の隅に向かおうとするのを、俺は追いかけた。
「高坂」
振り返る。
「なんですか」
「午後から俺が直接担当につく。岩崎班長には話した」
真昼が少し眉をひそめた。
「急にどうしたんですか?」
「最後だからな」
「……別に、今の担当の方で構いません」
「俺が決めた」
真昼はしばらく俺を見てから、「わかりました」とだけ言って歩き出した。
「待て、話がある」
「昼休みです」
「すぐ済む」
真昼が立ち止まった。仕方なさそうに俺の方を向く。
「なんですか」
「田中と木下と、なんで絡まないんだ」
真昼の表情が少し固まった。
「別に絡まなきゃいけないルールはないですよね」
「ルールじゃない。三週間一緒にいるのに、会話してるとこほとんど見ない」
「仕事に来てるので」
「実習生同士で何か揉めたか」
「揉めてないです」
「なら話しかけてみたらどうだ」
「……なんで私が」
「向こうが話しかけにくいなら、お前から行けばいい」
真昼は少しの間、黙っていた。
「それと」と続けた。
「現場の作業員への聞き方、もう少し変えた方がいい」
「聞き方?」
「内容が正しくても、届かないことがある。お前の聞き方は、相手が身構える」
「ちゃんと聞いてますよ」
「聞いてるのはわかる。でも、相手が答えたくなる聞き方じゃない」
真昼の目が少し鋭くなった。
「私の何が問題なんですか」
「問題じゃない。ただ」
「ただ?」
「このまま実習が終わるのが、もったいない」
真昼が少しだけ黙った。それから、静かな声で言った。
「なんでそこまで気にするんですか」
「……さあ」
「さあって」
「気になるから気になる」
「そんな答えがありますか」
「ある」
真昼はしばらく俺を見ていた。何かを考えている目だった。
それから、少し視線を落とした。
「もう実習も終わりますよ」
「あと一週間ある」
「一週間で変わらないです」
「変わるかどうかやってみなければわからない」
「……関わらないでください」
真昼の声が少し低くなった。
「なんで」
「大学でも、こんな感じでした」
俺は何も言わなかった。
「一人でいる方が楽なんです。誰かに気を遣うのが苦手で、それで浮いて、ずっとそうでした。でも別に、困ってない。慣れてるから」
平坦な声だった。感情を込めないようにしている声だった。
「だから、関わらないでください。もう実習も終わるし、どうせ配属されたら別の部署です。余計なことしなくていいです」
真昼は少し間を置いた。
「どうせ実習が終わったら、私と関わることなくなるんでしょう」
低い声だった。責めているわけじゃない。ただ、確認しているような言い方だった。
俺は何も言えなかった。
言い返す言葉が見つからなかった。
俺は高校の時、真昼に何も言わずに逃げたから。
真昼はその沈黙を見て、小さく息を吐いた。
それだけ言って、真昼は歩いていった。
俺はその場に立ったまま、背中を見ていた。
慣れてるから。
その一言が、やけに重かった。
慣れてる、じゃない。
慣れさせてしまった、だ。
誰も踏み込まなかったから。本人も踏み込ませなかったから。それが積み重なって、一人でいることが当たり前になってしまった。
大学でも。
高校の時から、ずっとそうだったのかもしれない。
俺と勝負していた頃だけが、真昼が誰かと本気でぶつかっていた時間だったのかもしれない。
そう思ったら、あの頃の勝負が少しだけ違う意味を持って見えた気がした。
あいつにとって、俺は何だったんだろう。
答えは出なかった。
食堂の入口で、陽菜が俺を見ていた。
いつもなら何か言ってくる。でも今日は、何も言わなかった。
その顔には、いつもの笑いがなかった。
午後のラインが動き始める。
俺は真昼の隣に立った。
真昼は何も言わなかった。
俺も何も言わなかった。
ただ、隣にいた。
それだけだった。




