一章 十話
昼休憩の少し前、俺は田中に声をかけた。
「ちょっといいか」
「あ、柴崎さん。なんですか?」
人懐っこい顔で振り返る。木下も隣にいた。
「高坂のことなんだが」
二人の顔が少し変わった。
「今日の午前中、ラインのコンベアに手が入りそうになった」
「え」
「大事には至らなかった。ただ、余裕がなくなってたんだろうな」
田中と木下が顔を見合わせた。
「それって……大丈夫だったんですか」
「怪我はない。心配するな」
田中と木下は顔を安堵した。
「ちょっとお願いしたいことがある」
「……お願いですか?」
田中が驚きながらも聞き返してきた。
「高坂に話しかけてやってほしい、あいつは見た目の割に不器用なやつなんだ」
「仕事の覚えは早い。でも、人との距離の縮め方がわからない。悪気があるわけじゃないし、誰かと話したくないわけでもない。ただ、どうすればいいかわからないまま三週間経ってしまったんだろう」
田中が少しだけ黙った。
木下が静かに口を開いた。
「……私たちも、声かけにくかっただけで、嫌いだったわけじゃないんですよね」
「そうか」
「最初の頃から、なんか気になってはいたんです。でも、話しかけると空気が変わりそうで。きっかけがなかっただけで」
田中が頷いた。
「俺もそう思ってました。高坂さんって、なんか……拒絶してるわけじゃないのに、近づき方がわからないというか」
「今日みたいなことになってたって聞いて、なんか放っておけなくなってきました」
田中がそう言って、少し照れくさそうに頭を掻いた。
二人とも、悪い人間じゃない。最初から真昼を遠ざけようとしていたわけじゃなかった。ただ、きっかけがなかった。それだけのことだったんだ、と思った。
「俺から話しかけます。今日の帰りにでも」
「そうしてくれ」
「でも、高坂さんが嫌がったら?」
「嫌がらない。たぶん」
「たぶん、ですか」
「保証はできない」
田中が苦笑した。
「柴崎さんって、こういう時だけ正直ですよね」
俺は何も言わなかった。
昼休憩が終わって、午後のラインが動き始めた。
午後から真昼の担当についた。
特別なことは何もしなかった。
隣に立って、必要な時だけ声をかけた。
真昼は午前中より落ち着いていた。目の虚ろさが消えていた。泣いたからか、それとも別の何かが変わったのかはわからない。
ただ、手の動きがいつもより丁寧だった。
部品の持ち方。確認の順番。一つひとつが、少しだけ慎重になっていた。
俺は余計なことは言わずに、隣で同じように手を動かした。
それだけでよかった。
田中と木下が真昼の方を、今日は少し違う目で見ていた。
気にかけている目だった。
それだけでいい。
あとは本人たちに任せるだけだ。
終業時間が近づいた頃、田中が真昼に近づいていくのが見えた。
俺は少し離れた場所で、作業の片付けをしながら横目で見ていた。
「高坂さん、今日大丈夫でしたか」
田中が声をかけた。
真昼が振り返る。
「……何がですか」
「なんか今日、午前中に大変だったって聞いたんで」
真昼の目が少し動いた。誰から聞いたかを考えている顔だった。
でも、追及はしなかった。
「大丈夫です」
「そうですか。よかった」
田中が少し間を置いてから、頭を掻いた。
「あの、もしよかったら今日飯でもどうですか。三人で。近くに定食屋あるんで」
真昼が固まった。
田中が慌てて付け加える。
「嫌なら全然いいですけど。なんか、三週間一緒にいたのに全然話せてないなと思って」
木下も隣で小さく頷いていた。
「私も行きます。もしよければ」
真昼はしばらく、二人の顔を交互に見ていた。
何か言いかけて、止まって、また口を開いた。
「……行きます」
「ほんとですか!」
田中の顔が明るくなった。
「じゃあ着替えたら正門前で」
「わかりました」
真昼の顔が、少しだけ赤かった。
照れているのか、それとも別の何かなのか。
でも、悪い顔じゃなかった。
三人が更衣室の方へ歩いていく。
田中が何か話しかけて、木下が笑った。
真昼は少し遅れてついていきながら、口元が少しだけ緩んでいた。
三週間で初めて見る顔だった。
俺はそれを、ライン横から黙って見ていた。
「先輩」
陽菜が後ろから来た。
「なんだ」
「高坂さん、田中さんたちと帰るんですね」
「そうだな」
「先輩が何かしたんですか」
「別に」
「ふーん」
陽菜はしばらく三人の背中を見ていた。
それから、小さな声で言った。
「……よかったですね」
声のトーンが、いつもより少し静かだった。
からかいでも、皮肉でもない。
本当にそう思っている声だった。
俺は答えなかった。
三人の姿がゲートの向こうに消えた。
片付けを終えて、工場の外に出る。
夕暮れの空が、工場の屋根の向こうに広がっていた。
オレンジが薄くなって、少しずつ紺に変わっていく。
実習生の件は、大丈夫だな。
ひとりごとが、夕風に溶けた。
あとは現場か。
田村さんとの間にできた空気は、まだ残っている。真昼の指摘は間違っていなかった。でも現場では、正しいことが正しいまま伝わるとは限らない。
何かできることがあるかもしれない。
そう思いながら、工場の中に戻った。




