#10 Sansevieria
真昼の茹だるような暑さは過ぎ去り、日射の苛烈さも多少落ち着いてきた。朝や晩は特に冷涼で、私、森草木花林の早起きの朝には、やや肌寒さすら覚えた。
昨夜、マールムから連絡があり、何かと思えば先月の海水浴場の怪物のことだった。職員による分析の結果、様々なことが分かってきたため、マールムにて共有しておきたいとのことだった。今日の何時頃でも構わないとのことだったため、お店の営業を終えてから向かうことに決めた。
いつもどおりの時間に起きて、眠気眼を擦りながら隣を見ると、そこにはいつもどおり私の夫、蒼がぐーすかぴーすか寝息を立てていた。今日は珍しくちゃんと枕側に頭がある。仰向けで、呑気にいびきをかく彼の様子に、ついつい笑ってしまう。数分経って一応セットしておいたアラームが鳴り響いても、それを止めてから立ち上がり、カーテンを開けて朝日が室内に射しても、彼は目覚める兆しすら感じさせない。これもいつもどおりだ。
自室の花に水を遣りに行った後、寝巻きに白衣だけ羽織って、キッチンに立つ。今日の朝食はどうしようか、と悩むこの時間も、いつもどおり。本来、私は食にはあまり関心がない性質の人間だ。私一人の食事ならば、毎日テンプレート化された一種類のもので構わないのだが、この食卓には彼がいる。私の作った料理をあんなにも美味しそうに食べてくれる人がいる。
「……フフ」
何だか腕捲りをして肩でも回したい感情だ。手を洗いながら考える。蒼は偏食家だ。海鮮、特にイカを用いた料理に執心し、どこへ行ってもそういった類の食事しか注文しない。まあ、私が料理にシーフードを含めずとも、それを拒絶するような人ではないのは分かっているが、どうせ作るなら矢張り喜んでもらいたいものだ。
冷蔵庫及び冷凍庫を開ける。あまり資材が残っていないことに気づく。目ぼしいものといえば、かろうじてイカ一杯(蒼の性質を鑑みて何らかの形で常備している)と、冷凍しておいた食パン。少し手抜きかもしれないが、今日はイカ焼きをパンに挟んでみようか。
料理と研究、化学実験は似ている。条件を整え、手順を参照及び構築し、とにかく挑戦してみる。それが望んだ結果を生み出すか、そうではない何かを生み出すか、何も生み出さないかは、トライするまでは誰にも分からない。化学にも料理にも、失敗はつきものだ。
結果は、まずまず。味付けは完璧であり、食の進むものだったが、矢張り柔らかい食感のパンの中に弾力の強いイカの身があるというのはどうにも整合性が取れていない。
「今日の花林のご飯も美味しいねぇ〜……」
まあ、向かい側でイカサンドを頬張る彼は(優しさか本心か分からないが)満足そうなので、それならそれで良しとする。
サイドのサラダも残さず食し、身支度を整えいつもどおりの時間に、いつもどおり彼より先に、下階へ、つまりは店舗に向かった。
種類多様な花々の香りが充満する店内。商品の状態を確認し、世話を終えて定刻、シャッターを開けて開店する。起床時の肌寒さは薄れたものの、依然冷涼な通りの空気が舞い込んで、花の香りをさらっていく。爽やかで、好い心地。隣に並んだ店舗を見ても、まだ電気は点いていない。二度寝してしまったのかしら。
花々の世話をしていると、静かにまちまち客がやってくる。私の店は、あまり混雑するような店ではない。来る客も、来る時間帯も大体決まっている。矢張りと言おうか、客層は女性が当然多いが、意外にも男性客もそれなりに来店する。男性の客が来ると、少し気が楽になる。
「すみません、あの、これ下さい」
あまり見ない顔の女性客だ。上等な純白のワンピースを身に纏っている。私はレジスターに戻る。どうにも、レジカウンター越しでないと話しづらい。
「はい。お会計、六百円となります」
女性は財布を漁る。机上に置かれたユリの切花。
「……ご自分用でいらっしゃいますかしら」
訊ねると、女性は少し驚いたような表情をする。無意識に私はテーブルの下で指を組んでいた。気づいたものの、解く気はさらさら起きない。
「は、はい、ええ。そうです。綺麗だなって」
「ご存知でしたらご無礼になりますけれど、こちらのユリのお花、花粉が衣服や家具に付着することがございます。付くと中々落ちませんので、お気をつけてください。六百円丁度、頂きます。こちら、レシートとなります。ありがとうございました。またのご来店をお待ちしております」
頭を下げると、少し気持ちが落ち着く。この仕事を始めてから随分経つが、依然こういった、特に女性客に対する接客には苦手意識が抜けない。私はお花を愛しているし、それはあちらとしても同じ筈だ。完全な状態でお花を愛して欲しいという感情と、彼女を忌避する感情が、私の心に同居している。とにかく、喜んでもらえたようで何よりだ。
その他数名の客と購入契約を交わし、こうして午前の営業は終了。本日、花屋『はなきりん』の営業時間は終了した。
鱗雲が流れていく。頬を撫でる冷風も、ここマールムの広大な外縁を埋め尽くす花畑の匂いまで揺るがすことはできない。
蒼との昼食後、予定通りマールムへ来た私だが、軽く大花壇の手入れをしてから本題へ向かおうと考えた。マールムの名物でもある一面の大花壇は、全て私が管理している。時々こうして覗きに来て、元気のない花を新しくしたり、季節が移るごとに植わっている花々の種類を総入れ替えしたりしている。前回大花壇の管理を目的にここを訪れたのは確か一月ほど前だったか。少し期間が空いてしまったものの、花たちは依然可憐かつ健全なままだ。そろそろ総入れ替えをしても良い頃合いだが、今日はこの後に予定も控えているし、蒼のためにも、植え替えはまたの機会に回すことにする。
マールムの外縁を一周し、メンテナンスを終えたため、到頭今日の本題に移る。向かったのは研究部。創造神の部屋のある北の塔を上と見たとき、各角にそれぞれ塔を据えた底面が六角形の建造物であるマールムの右上辺りの地下に位置しているマールム研究部は、発生した害獣の生態や生息地、または魔力のあれこれに関する研究等、世界全体の治安維持に有用な多様の研究を行っている部署である。研究部に勤務する職員とは比較することもおこがましいが、私的興味から薬学や生態学を齧っている私も、時に彼らに協力することがある。実際、私が独自に自らの魔力で創出した植物と液体魔力の成分を利用して調合した麻酔の技術は彼らに認められ、我々守り人の任務の際に支給される物資として導入されている。
創造神の部屋に遜色のない真っ白な空間。認証機付きの自動扉を潜ると、清潔かつ無機質な印象の部屋に出る。通り掛かりの白衣の男性がこちらに気づく。害獣の研究を担当している一般職員だ。
「森草木様。お待ちしておりました」
「すみません、遅くなってしまいましたわね」
「いえいえ、こちらとしては来ていただけるだけで有難いので……それでは、ささ、こちらへ」
そそくさと速足で私の前を征く彼。私はその背を追って、整備された蟻の巣のような研究部内を進んでいく。
辿り着いた部屋。大きな強化ガラスの窓から、向こう側のとてつもない大部屋を覗ける。窓越し、見覚えのある真っ黒なシルエット。
「海水浴場の怪物━━」
こんなところに移送されていたとは。一体、こんな地下深くまでこの巨体をどのように運び込んだのだろうか。
「本日、森草木様をお呼びしたのは他でもありません。先月、守り人様の力により捕獲された未確認の生物、ネームド『海の魔物』の詳細が判明したため、貴女様をお呼びいたしました。森草木様は『ヨルモドキ』をご存知ですか?」
「……いいえ」
聞いたこともない名詞。最早物質の名前か、何らかの概念及び現象か、はたまた生物なのかすら分からない。
「それも当然です。ヨルモドキとはこちらの大陸では見られない生物であり、更にはあちらの大陸でも目撃例はほぼ無いと言ってしまっても良いほどの存在なのです。その希少性から、分かっていることも極僅かでして、巨大な口を持つこと、その漆黒の口内に無数の発光器官を持つこと、それが夜空に浮かぶ星と月に見えること、そして、何百年に一度だけ活動し、捕食行動を取ることだけが分かっています」
何百年に一度となれば、私が知らないのも納得出来る。あらゆる図鑑にも文献にも、このような生物の存在は記載されていなかった。それにしても、そのヨルモドキとこの生物に、何の関係があるのか。
「━━まさか、これが」
「ご想像の通り。我々マールム研究部は、今回の捕獲された害獣『海の魔物』を、ヨルモドキの幼体と断定いたしました」
窓越しの、黒姿を仰ぎ見る。今まで文献にすら記されなかった謎の存在が、今目の前にいる。
「……あら、そういえば、おかしいわ。この、海の魔物の口内には、発光器官なんて見当たらなかった━━」
「ように見えました。しかし、調査の結果、未熟であり未だそのような機能は発現していないものの、成長後に発光器官となりうる器官が口内壁と口蓋垂に見られました。その他の身体的特徴からも、海の魔物がヨルモドキの幼体であると結論付けられます」
「成程━━」
「今回の捕獲及び調査の結果、ヨルモドキはクジラに近い雑食性の哺乳類であると分かりました。通常のクジラと同様、水中を長時間泳ぐことは当然可能ですが、ヨルモドキは更に空中を浮遊することが出来ます。浮遊の原理はこの種の食性に因ります。先程、ヨルモドキは何百年かに一度捕食のために活動すると言いましたが、その能動的な捕食行動は激甚的なものです。通常時は常に大口を開けてひたすら待機し、発光器官に導かれて口内に侵入した生物を呑み込んで捕食するようですが、何百年ごとに不足した栄養を一気に体内に取り込むため、その大きな口で文字通り『全て』を呑み込みながら移動するのです。ヨルモドキはその際、体内に取り込んだ空気からより軽い気体成分のみを体内に溜め込み、それを利用して浮遊します。ヨルモドキのその無差別な捕食は、あちらの大陸で行われるものならば何ら自然動物として当然の、ただの自然淘汰の一種でありますが、こちらの大陸で行われるようならば、別です。今回の研究の結果、創造神様はヨルモドキを特別指定害獣と定められました。以上が今回共有したかった情報となります」
非常に興味深い生態の生物だ。今、私は新たな生き物が図鑑に記載される瞬間に立ち会っている。何と光栄なことか。
「そうですか、非常に興味深いお話をありがとうございました。把握しておきますわね」
感謝を述べると、職員は返答しつつ、何とも微妙な顔をする。
「いかがされましたか」
「……今回の、海水浴場の一件は、この幼体による能動的捕食行動であると言えます。幼体が存在すれば、当然、成体も存在するということです。全長三百メートル、この大きさで、幼体なのですよ。この数倍、数十倍大きな成体がこちらの大陸に向かってきた場合、未曾有の激甚的被害は免れません。過去の記録を見ると、ヨルモドキと思しき存在の捕食行動に巻き込まれ、数十万人の一般市民や━━守り人様の、犠牲者が出た、と書かれているものもあります。どうか、どうか、お気をつけてください」
彼の、眼鏡の向こうの細い目が、私を見る。窓越しの巨大な影の黒い目に串刺しにされて、身動きが取れなくなる。
研究部内、無風空間、凍える空気が背筋をなぞった。
蒼は、何をしているかしら。
次回「とある一日〜ハプニングを少々〜」




