#9 海ノ魔物
青信号になる。俺はアクセルを踏む。
「う〜み〜はぁ、ひろい〜なぁ、おおき〜いなぁ〜」
気の抜ける大合唱が車内を満たしている。ルームミラーを一瞥すると蒼が、助手席からは輝が上機嫌に歌っている。
「まだ海見えてねェだろォ……」
「茜ぇ、いもりこ食べないのぉ〜? ボク、全部食べちゃうよぉ〜」
「ソレは食う!」
広々とした後部座席にはわちゃわちゃと菓子を貪る茜と蒼、窓を見て涼しげな表情の花林。その奥には、この間購入した楽しげな柄の浮輪やらパラソルやら何やらが積まれている。
痛烈な晴天の今日、現在俺たちは大型車を借りて、海へドライブ中だ。華街の中心地に住んでいると車を運転する機会も、何なら必要すらない。一応免許は持っているが、運転するのは久々のことだ。あのときサングラスも一緒に買っておいて良かった。
「お兄ちゃん」
助手席に一瞬目を遣ると、カシャという音と共にスマホの背面が目に入る。輝の顔は隠れて見えない。
「どうした」
「んふふ、何でもな〜い」
隣からサクサクと咀嚼音が聞こえ出す。
「ん〜! おいしっ。お兄ちゃん、口開けて〜」
満足気な輝につい頰が綻んでいたが、言われるがまま口を開ける。雑に放り込まれる芋の菓子。チーズの味だ。輝とは打って変わって後ろの男どもには、俺にも菓子を分け与えるなんて発想は無いらしい。
「美味いな」
「ねっ! やっぱりいもりこはチーズ味が一番美味しいよね〜」
「えぇ〜? あたりめ味だよぉ〜」
「ぜッてェ辛ェヤツが一番美味ェだろ」
「めんたい味ね」
「ソレだァ。ッつーか、あたりめ味なんて見たコトねェよ!」
ふと口を出してきた花林に改めて目を遣る。途中寄った小売店で(主に輝が)大量に買い込んだスナックも食わず、会話に少し口を挟んだかと思えばまた窓の外を細い目で眺めている。何を見て、何を考えているのか分からないが、俺たちには理解不能な、専門的かつ難解なことに思考を巡らせているような、そんな表情だ。
「花林ちゃんもっ、これ食べる?」
輝はぐるんっと振り向いて、シートと壁面の隙間から花林に問い掛ける。しかし、花林は窓の外を見続けた。
「いえ、私は大丈夫よ」
「やっぱりぃ、花林はチーズじゃなくてあたりめ味だよねぇ〜? これ、お食べぇ〜」
「そ、そういうわけじゃないのだけれど」
「花林オマエ、ナニかあったかァ? ━━ッつーか、コレがあたりめ味なのかよォッ⁉︎」
心配している声音から遅れてツッコミを入れた茜と、花林に食わせようとした芋菓子を自分でポリポリ食べ始めながら心配そうな蒼が、ルームミラーに映っている。
しばらく黙り込む花林。エンジン音だけ響いている。何かあったのか、やはり何か重大なことを考え込んでいたのか。車内の皆の視線が、そう言いたげに集中する。
「少し━━酔っちゃって」
余りにも拍子抜けな返答に、危うくハンドル操作を誤るところだった。車酔いしながら、よくもあんな真剣かつ涼しげな、知的かつ実直な顔が出来るものだ。それにしても、俺の運転はそんなにも酷いものだったろうか。自戒する。
「運転、荒かったか」
「いえ、そうじゃないわ。単に、私が乗り物酔いし易いだけよ」
「そうか」
そういえば、守り人五人で乗り物に乗ったことなんて片手で指を折り数えられる程度しか無い。俺たちは、個人個人で独立した生活を送っていることを思い直す。知り合って何年経つか、そういえば余り意識していないが、長らく共に過ごしてきたにしては、俺はコイツらのことを知らない気がする。まあ、今は多少気にするが、それこそ昔の俺にとって、世界は輝のためだけに存在した。俺は過去を意識的に振り返るような、そんな性質ではない。
運転に集中している間に、いつの間にか窓は開けられ、少し潮辛い風が車内に吹き込む。
「花林ちゃん、前の席来た方が良いよっ! お兄ちゃん、ちょっとどこかで停まって〜」
「ああ、分かった」
「そ、そこまでしなくてもいいのだけれど……いえ、フフ、じゃあ、お願いするわ。ありがとう」
「気にしないで〜! じゃ、気を取り直して出発だぁ〜っ‼︎‼︎」
「ソレ、席換えてから言うヤツだろォ……?」
信号は青。俺はアクセルを踏み込む。潮風に包まれて、五人詰め込まれた鉄の弾は地上を飛んで行く。海へ向けて。
砂塵と塩が身を削ぐ。白い砂浜、群青の海、それらに反射した苛烈な太陽が、俺の地肌に突き刺さる。
「海だぁ━━━━ッ‼‼」
浮輪にゴーグル、大きな麦藁帽子にピンク色の水着。準備万端の輝が前へ歩み出て体を開き、そう叫ぶ。俺が口を出そうとした途端、背後から文字に起こせない歓声を上げながら何かが飛び出してくる。アロハ柄をした短パン型の水着のみ身に着けて、後ろで結んだ青髪をぶんぶん振りながら海へ駆けていく色白の背中。蒼だ。
「まだパラソルも設営してねェってのによォ、ッたく」
真っ黒のサングラスを掛け、洒落た羽織のような水着で、ネックレスやら何やらを太陽に負けじとギラギラさせている茜が背後から遅れてやってくる。手にはパラソルやらクーラーボックスやら大量の荷物を抱えている。物言いに反して、表情は笑っていた。
「オイ、オマエら手伝え━━」
どさっと荷物を置いて鶴の一声を上げる茜だったが、ふと言葉が止まる。茜の視線の先では、先日購入した白いワンピース姿の花林が海を見て立ち尽くしている。茜の声も、海水浴客の喧騒も、花林には聞こえていないようだった。
「……まァ、いいか。輝に無我夜、オマエら、手ェ貸せェ」
この場所には、俺と茜と花林しかいない。
「輝はもう海へ走っていったぞ」
「イツの間にドッか行きやがったァ⁉ もォイイ、無我夜、オマエだけでも荷物持ちやがれェ」
「重いから面倒臭い」
「オレも重ェんだよォッ‼‼」
やはり、アツいコイツにはアツい時候がよく似合う。
ラッシュガード越しでも、この陽射しは俺には苦痛過ぎる。サーフボードを小脇に抱え、俺たちのパラソルへ戻っていく。日陰で優雅に座りながら依然海を眺めている花林。
「あら、もう戻ってきたの? 楽しそうにしていたじゃない」
「まあ、波に乗るのは爽快だったが、この晴天は頂けない」
「そう? やはり海には灼熱の太陽があってこそのような気がするけれど、フフ、変な人ね」
薄ら笑みを浮かべる花林を一瞥し、よく冷えた炭酸飲料を呷る。たまにはコーヒー以外の飲料も悪くない。
「それは茜の嗜好だろう?」
「そうかしら。一般論だと思うけれど。それに、存外私もそう思うわ」
サーフボードを放って、ビーチチェアに腰掛ける。海の方を見ると、遠くの波に赤と青のサーファーが乗っている。沿岸では、浮輪でくつろぐ輝の姿も確認出来る。輝もこちらに気づいたようで、小さなドットが大きくこちらに手を振った。俺も花林も振り返す。
「……なら、お前もここから出てみるといい。輝も呼んでいる」
「遠慮しておくわ。私、泳げないし。それに、海に太陽がつきものだと言っても、私自身、陽射しに当たりたいというのとは、それとこれとは別なのよ。私は、陽に照らされた海を見ていたいだけ」
花林はここに来てからずっとここにいて、一度も海から目を離していない。依然、花林は海を、更に言えばその先の、どこか遠くを見つめたままだ。真摯な瞳を、俺は見る。
「見ているのは、海だけか」
「……どういう意味よ」
花林が訝しんでこちらを見る。
「蒼を目で追ってるだろ」
俺は海を見る。その先の、まるで水上バイクのような超速度で波を縫う、小さな青い点を見る。隣から一切の音が止む。
「……そんなこと、無いけれど」
「正直に言えば、サーフィンしている蒼を至近距離で撮ってきてやる」
隣に目線を遣ると、どうやら反射的にこちらを向いてしまったようで、花林はいつもより目を見開いて俺を見ていた。直ぐに前に向き直り、膝を曲げて顔を埋める。紅潮する耳。
「……見てたわよ、何か悪い」
「いや、何も」
サーフボードを持って立ち上がる。休憩は済んだ。太陽光の降り注ぐ、素晴らしく鬱陶しい日向の世界へ歩き出す。いつも難解で、知的で冷静沈着な花林の、この単純かつ扱い易い一面が、非常に面白い。上がる口角を抑えながら、波へ向かった。
永遠に、打ち寄せては引いていく波。あのときと変わらない海。寄せる度、細かく姿を変える波打ち際と砂浜だが、その反復の永続性は、例え何があっても、この先もずっと続いていく。私にとって、そして当然蒼にとって、海は特別な場所だ。
「━━オイ花林」
背後から唐突に呼ばれ、驚いて振り返る。筋骨隆々の肉体━━視線を上げると茜だった。濡れた髪を掻き上げ、相変わらずサングラスを掛けている。何やら包み紙に包まれた何某かをこちらに差し出していた。
「食いモン買ってきたぜェ」
「あら、貰ってもいいの?」
「オマエに差し出してんだから当たり前だろォ。ホットドッグだが構わねェか?」
熱を放つホットドッグを再度差し向けた茜に感謝を示して、重量のあるそれを受け取る。思えば丁度、お腹の空いてきたところだった。一緒にご飯を食べに行くことを提案するのでなくて、わざわざ食料を買ってきてくれるとは。
「……フフ」
「ナニ笑ってんだよォ?」
茜はよいしょと掛け声を漏らしながらビーチチェアに腰掛け、こちらに淡白に問い掛けてくる。携帯していた紙袋から私のと似たような包装紙を取り出して剥ぎ始める。
「いえ、ただ、気が利くなと思っただけよ」
大きな口でホットドッグに噛み付いて、咀嚼、嚥下する茜。
「オマエ、飯食い行こうって誘ってもよォ、どうせココから動かねェだろ? ソレに他のヤツらもいねェし、探すのも億劫だからなァ」
オマエも食えよ、と諭されて、私も包装紙を剥ぎ、熱々のホットドッグに食らい付く。ウィンナー特有の強い肉の風味と肉汁が、まぶされたケチャップ及びマスタードの酸味と混ざり合い、お互いの嫌な部分を見事相殺して良さを引き出している。
「……私のこと、よく分かっているわね」
「分かってるッ言っても、毎回そうじゃねェか。アイツとの思い出の場所、なんだろォ?」
茜は海の方を一瞥する。私は改めて大海原を見詰める。遠くで依然として大波に乗っている蒼の姿。
「よく、覚えているものだわ」
「当たり前だろォ、友人の馴れ初め話だぜェ? 忘れるわけねェじゃねェか」
「……それ、やっぱり蒼から聞いたのかしら?」
私の問い掛けに、茜は「ハァ?」とでも言いたげの顔でこちらを見た。
「オマエが言ったんじゃねェか、あの、初めて酒飲んだ日によォ」
だから、お酒は飲まないし、飲めないのだ。飲酒して初めて、私は異常にアルコールに対して耐性のない下戸だと知った。懐かしい記憶だ。まあ、懐かしいとは言っても、私にそのときの記憶は無いのだけれど。翌日の不快感と記憶喪失ははっきり覚えている。
「そんなの、覚えてないわ」
「また、オマエらと酒飲みてェなァ」
「私は飲まないわよ」
「二人とも〜! 何食べてるの〜っ!」
遠くから大きな声が聞こえて、二人してそちらを向く。大きな浮輪を小脇に抱えた輝ちゃんが、疲れを知らない様子でこちらに走ってくる。
「丁度イイところに帰ってきたなァ、輝ァ。ついさっき、ホットドッグ買ってきたトコロだぜェ。コレ、やるよォ」
紙袋から取り出したホットドッグを輝ちゃんに差し向ける茜。目を輝かせた輝ちゃんは、走る速度を上げてそれを取り去った。茜は呆れたように笑う。
「やったっ、ご馳走様ぁ!」
「まァ、イイけどよォ」
「えっ、ホントに奢りでいいの?」
「しょうがねェなァ」
「やった! ありがとっ、茜!」
「へェへェ」
そういえば代金を訊くのを忘れていた。私も茜に向き直る。
「ご馳走様、茜」
「構わねェよ、好きに食え」
「うまッ! やっぱ、こういうのでいいんだよねぇ、こういうので」
私の隣に腰を下ろして、輝ちゃんは遠慮なくホットドッグに食らい付いていた。豪快に食い千切り、頬を膨らませて、いつの間にか飲み込んでいたようだ。見ると、もう既に二口目に移っている。
「ほーいえは、はんのはなひひへはの?」
輝ちゃんがむしゃむしゃホットドッグを食べながら発話したせいで、彼女が何を言ったのかよく分からなかった。茜と顔を見合わせる。
「……あァ、何の話してたのって訊いたのかァ。イヤ、酒飲みに行きてェなァってさァ」
そっちの話を持ち出してくれるのね。茜の言葉を聞いた途端、目を大きく見開く輝ちゃん。咄嗟に口内のものを飲み込んだせいで、むせてしまって咳をしながら胸元を叩き始める。急いで水を手渡すと、輝ちゃんは大急ぎで飲み下した。ほっと一息。
「━━お酒! 私も行きたい!」
輝ちゃんは生粋のお酒好きで、かつ私と違って、強過ぎると言って良いほどの酒豪だ。こんなに華奢な体をしているのに、何故あんなにも酔わないのか、人間の体というものは不思議なものだと常々思う。
「……『飲み競べ』は、もうしねェからなァ?」
「え〜? そんなこと言って、毎回何だかんだでノってくるじゃん!」
「あんなバケモンみてェな遊びにそもそも誘ってくんじゃねェって言ってんだよォ‼︎‼︎ 酔ってッとノっちまうからァ‼︎‼︎」
「え〜〜〜」
「え〜じゃねェ!」
二人のじゃれ合いを聞きながら海を眺めていると、いつの間にか白い砂浜に目立つ全身真っ黒の無我夜がこちらに寄ってきている。私はふと先程の契約を思い出して、普通に挨拶しかけた声を詰まらせる。
「……どうした」
「い、いえ、別に。あ、ああっ、丁度さっき茜がホットドッグを買ってきてくれたわよ」
二人も無我夜が来たことに気づいたようで、各々声を出す。
「あっお兄ちゃん!」
「あァ、ココにあるぜェ」
「気が利くじゃないか、有難く頂くぞ」
「オマエだけ四百円なァ」
「何で俺だけなんだよ」
サーフボードを放って、ささやかな笑顔を浮かべながら自らの魔力で形成した椅子に腰掛ける無我夜。茜が軽く投げたホットドッグを見事受け取る。そうして無我夜は、いつの間にか取り出した自身の財布を漁り、さりげなく千円札を手渡した。何と言おうか、不器用で、ぶっきらぼうだけれど、彼らしい親切だ。特に何も言わず、無我夜の顔を一瞥しただけでその親切を受け入れる茜。こういうやりとりが、何だかこの二人らしい。
「ねぇねぇお兄ちゃん! 今、みんなで一緒にお酒飲み行きたいね〜って話してたの!」
「ほう。そういえば、しばらく行っていないな」
「待て輝ァ、まだ話終わってねェぞォ!」
「も〜、どうせ飲み会始まったらノっちゃうんだから意味ないって〜」
「だから誘うなって言ってんだよォ‼︎‼︎」
「じゃあ、茜は抜きで飲みの場を設ければいいのか?」
「そうじゃねェよ⁉︎ オレが言いてェのはなァ━━」
静かな海が好きだ。静寂の中に、永遠繰り返すホワイトノイズのような波の音が好きだ。でも、こういう賑やかな海も、それはそれで良いものね。
「━━まァとにかく、飲みの日程決めるンならアイツもいねェとなァ」
総員、海を見る。彼方から、まるで巨大な壁のような大波が迫り、痛快な蒼穹を隠す。今日の海は荒れているようだが、緞帳のような波を物ともせず、縫い付けるように青い線が高速で移動しているのが見える。蒼だ。
次第に波が失せ、空が見える━━筈だったが。
波の向こう、先程まで確かに真昼の蒼穹が拡がっていたそこには、巨大な真っ黒の何かが大口を開いている。時間が止まる。賑やかな海水浴場から、一切の、何者の呼吸音すら消え失せる。刹那、耳を劈く悲鳴と怒号。目を見開く。四人、目を見合わす。皆の、色の変わった瞳。異常事態だということは、口で言うよりも明らか。アレの方向には蒼がいる、けど、あの人なら━━。
「暗転」
無我夜の声と共に、完全なる暗闇が真昼のビーチに顕現する。あの空を覆う巨大な黒い口の正体が何であろうと、これは、守り人の仕事だ。万が一に備えて持ってきておいた出来立ての仮面を取り出し、装着する。しかし、服装を変える手立てがない。
「濡れてッけどコレ、一応羽織っとけェ」
茜の声がして、肩に冷えた重さが乗る。フィンガースナップの音と同時、突如闇は引き、先程の、真昼のビーチが帰ってくる。依然逃げ惑う人々。他の皆は、それぞれ脱げるものを脱いだりした上で仮面を装着済みだ。
「オイ、アレがナニか分かるヤツいるかァ」
改めて、遠景の空を喰らうような黒色の巨大物体を見直す。遠過ぎて分からないが、何か実体のある移動物体らしく、まるで空母のように波を白立ててこちらへ迫り来ている。黒い陰の各箇所が微妙に微動しているようにも見える。思考が巡る。
「分からない、けど、生き物、なのかしら」
「━━というかっ! 蒼がまだあっちにいるよねッ⁉︎」
途端、跳躍し焱を噴射して超速度で飛翔する茜と、自らの魔力で足場を生み出して海上を飛び石のように凄まじい速度で駆け出す無我夜。二人の姿が点になっていく。
「か、花林ちゃんッ、追わないのっ」
「私の力じゃ、間に合わないわ。海中は森属性の魔力は有効に機能しない。浜辺から植物を生やして操作、追い掛けたとしても、その速度は彼らのそれに遠く及ばない。それにね、輝ちゃん。私、蒼のこと、心配していないのよ」
「何でッ━━」
「輝ちゃん。落ち着いて考えてみて頂戴。蒼は、一体何の守り人かしら」
輝ちゃんは、目を再度見開く。
「湖の守り人にとって、海は独壇場よ」
再度、海を見る。二つの点が、夜空のような巨大な陰へ吸い込まれていく。ふと手前に目が行く。海が、寄せてもないのに引いていく。ぐんぐんぐんぐん引いていく。地底の巨大ナマズが体動したような、轟音がどこからか腹の中を揺さぶる。
突如、遠景、きっと二つの点の目鼻の寸前で噴き上がる巨大な水柱。
この浜辺より広範囲の、まるで天蓋を支える大黒柱のような水柱が苛烈な勢いで天に昇り、あの黒い物体の姿すら覆い隠す。見上げた日輪に、黒い点が舞い上がっている。
「━━蒼」
大空を征く渡り鳥の尾羽のような、絶海を回遊する人魚の鰭のような、艶やかな青の長髪。別に、心配していたわけじゃないけれど、やっぱり彼の姿を見ると、安心する。
噴出した、大陸の如き太さの水柱はたちまち変形し、黒い巨大物に纏わり付く。変形はとめどなく、昼間の海上上空に、黒いそれを閉じ込めた惑星のような巨大な水球が出現した。黒いそれの全貌が明らかになる。とにかく壮大な巨体。まるでシルエットかのように全身漆黒のその形状は、どうやらクジラに似た生物のようだった。最初、闇にしか見えなかった部分はそれの大きな口だったようで、通常のクジラのシルエットよりも頭部が肥大化して見える。初めて見る生物だ。
「す、すごい……」
ほっと胸を撫で下ろす輝ちゃん。私も、どうやら無意識では緊張していたようで、肩の力が抜ける。茜と無我夜は大丈夫だろうか、と目を凝らすと、海上で何やら立ち尽くしている(茜に至っては浮いているが)ようだった。
「輝ちゃん、私はマールムに連絡するから、輝ちゃんは海水浴場の運営者に取り合って来場者の安全の確保をお願い出来るかしら」
「オッケー! 任せてっ」
私の言葉を受けて、正に光速で踵を返す輝ちゃん。携帯を取り出して操作を始める私。
「……はい、森草木花林です。現在茎街側軸区六番地のゆるぎ浜にて詳細不明の巨大生物が出現、危険を感じたため捕獲し━━」
ぶおおおおおおおおおおおお
汽笛のような、角笛のような、はたまた地底ナマズの大欠伸か、というような、凄まじい大轟音と地響き。超高音と超低音が複雑に重なり合ったみたいな、根源的恐怖を煽る音。海の方から、というよりも、あの怪物から。
水球から飛び出し、大口を開けて飛翔する巨大な陰。あの生物、飛行出来る━━。大口の先には、落下してきた蒼と、他二人。咄嗟に手を伸ばす。魔力を。届かない。間に合わない。背後から爆発音。刹那、歪む視界の端を裂く痛烈な光。海へ続く一閃。お願い。間に合って。
「危なぁぁぁ〜〜〜い‼︎‼︎‼︎‼︎」
蒼の声が大海原に響く。同時、クジラを追って再度包み込んだ水球が、一瞬にして凍り付く。次の刹那、遠くから、海面すら揺さぶる衝撃音がして、光の筋が途絶える。灼熱の真昼、日射差す正午、海上に浮遊し冷気を放つ超巨大な氷の球体。まるで金属のように、ギラギラと太陽光を反射して、私の目を刺す。
『━━ぉし、もしもし、大丈夫ですかっ』
手元の携帯から声が聞こえているのに今更気づいて、心ここに在らずな心持ちで耳に当てる。
「ごめんなさい、今度こそ、完全に動きを封じました。念の為、現場の入場封鎖と巨大生物の引き渡しをお願いします」
安堵したような声色の電話相手。しかし一旦安心したようで、淡々と業務的な返答を貰って、通話は切れた。
一体、あの存在は何なのか。ゆっくりと、各々の方法でこちらへ戻ってくる四つの人影と、一つの巨大な怪物入りの氷塊、そして干潮の海を見ながら、私はこの海よりも深い思索の奥底へと沈んだ。全く、こんなにも素晴らしい日が仕事に変わってしまうなんて、なんて最高の日なのかしら。
折角の休みが仕事になってしまったのは極めて遺憾だが、怪我人を出さずに処理が出来ただけ良しとしよう。後日、どうやら花林のところへ今回の生物の続報が届いたようだ。
次回「Sansevieria」




