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【40万PV感謝】罪人令嬢は、二度目の人生でも幸せになれない~誰にも愛されていないと信じたまま、私はまた笑う~  作者: 水無瀬 霧乃
幸せを壊す罪人

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第46話 硝子の罪人

祝祭の喧騒は、分厚いガラス一枚を隔てた向こう側のように遠く、リリスの鼓膜にはただ、己の荒い呼吸音だけが響いていた。


夜風が汗ばんだ肌を冷やすが、体の芯に灯った絶望の熱は消えるどころか、どす黒く燃え広がっていく。


「……リリス、様?」


隣に立っていた貴族の令嬢が、怪訝そうに小首を傾げた。


その瞳に映る私は、きっと仮面が剥がれかけ、ひび割れた陶器のように歪な顔をしていただろう。


限界だった。


張り詰めていた琴線が、音を立てて断ち切られる。


世界から色彩が剥落し、鮮やかなドレスも、煌びやかなシャンデリアも、すべてが灰色の染みへと変わっていく。


このままここにいれば、私は崩れ落ち、中身の詰まっていない空っぽの残骸であることを晒してしまう。


それは、死ぬことよりも恐ろしい屈辱だった。


「……皆さま、ごめんなさい。少し体調が優れなくて。先に失礼します」


喉から絞り出した声は、砂利を噛んだようにザラついていた。


私は全身の筋肉を強張らせ、ぎこちなく最後のカーテシーを作る。


優雅さなど欠片もない、逃亡者の礼。


誰かの返事を待つこともなく、私は踵を返し、光の満ちる円舞の輪から背を向けた。


一歩。


靴音が石床を叩く。


二歩。


背中に突き刺さる視線が痛い。


三歩、四歩、五歩――。


足早に回廊を抜け、重厚な扉を押し開ける。


夜の冷気が頬を打ち、私はようやく肺の奥まで息を吸い込んだ。


けれど、酸素と共に吸い込んだのは、濃密な孤独の味だった。


気づけば、走っていた。


仕様の重たいドレスの裾を掴み上げ、上品なヒールが悲鳴を上げるのも構わず、暗い廊下をひた走る。


どこへ?


分からない。


ただ、あの光の場所から、あの幸福な光景から、一秒でも早く遠ざかりたかった。


校門の方角へ向かおうとして、足が止まる。


あそこには、ロキナがいる。


私の忠実な侍女。


私の“凱旋”を、勝利を、誰よりも信じて待っている家族。


会えない。


今の私の顔を、彼女に見せることはできない。


なんて言えばいいの?


『ロキナ、私の席はもうなかったわ』


『父上は、もっと若くて健康な妻と、明るく素直な娘を手に入れて、とても幸せそうだった』


『私はただの、惨めな道化だった』


そんな残酷な真実を、あの優しい瞳に告げることなど、どうしてできようか。


戻れない。


宴会場にも、屋敷にも、私の居場所なんて、この広い世界のどこにも用意されていない。


私は方向を変え、人気の途絶えた中庭へと駆け込んだ。


闇に沈む植え込み、月光を弾く噴水。


すべてが冷たく、私を拒絶しているように見える。


あてもなく彷徨い、息を切らし、やがて辿り着いたのは、鬱蒼と茂る薔薇の生垣の奥。


――あの日の薔薇園だった。


東屋のベンチに倒れ込むように座り、私は膝の上で震える手を握りしめた。


いつの間にか、右手には赤ワインの入ったグラスが握られている。


無意識のうちに会場から持ち出してしまったのだろうか。


深紅の液体が波打ち、私のドレスに血のような染みを作る。


靴は片方脱げていた。


ティアラもどこかへ消えていた。


今の私は、高貴な公爵令嬢ではない。


ただの、薄汚れた敗残者だ。


祝祭の歓声が、遠い風に乗って微かに聞こえる。


幸せそうだね、みんな。


楽しそうだね、みんな。


その幸福の残響が、私の鼓膜を針のように刺す。


「……はは」


乾いた笑いが、喉の奥から零れ落ちた。


前世の記憶が、濁流のように押し寄せてくる。


冷たい石牢の床。


鉄格子の向こう側。


断罪の日に見た、父上の冷たい視線。


カシリア殿下の軽蔑。


エリナの勝ち誇った微笑み。


あの時の絶望が、形を変えて今ここにある。


世界は灰色だ。


どんなに足掻いても、どんなに努力しても、結局私はここに行き着くのだ。


不要なものとして弾き出され、暗い場所で膝を抱える結末に。


あそこにいるべきなのは、私と母上だったはずなのに。


父上の隣で笑うのは、私であるべきだったのに。


奪われていいはずがない。


誰にも。


絶対に。


胸の内でどす黒い感情が渦を巻く。


怒り、憎しみ、嫉妬、そして深い悲哀。


けれど、それらをぶつける相手すらいない。


ただ、空虚な瞳から涙が止めどなく溢れ落ち、頬を伝って冷たく乾いていく。


この物語には、もう母はいない。


そして私も、必要とされていない。


父上のあの笑顔。


バルコニーで見せた、あの蕩けるような安らぎの表情。


私は知っている。


九歳になるまで、私たちが“家族”だった頃、父上はあんな風に笑っていた。


けれど、母上の足が動かなくなったあの日、その笑顔は死んだ。


私のせいで。


私がわがままを言ったせいで。


だから、私には文句を言う資格なんてない。


父上はただ、失われた時を取り戻しただけ。


健康な妻と、元気な娘。


“普通の家庭”。


罪人である私が、何を恨めばいい?


むしろ、他人の幸せを妬み、父上の幸福を呪う私こそが、最低で、卑怯で、世界で一番醜い存在だ。


「……っ!」


私は残っていたワインを一気に喉へ流し込み、空になったグラスを力任せに石畳へと叩きつけた。


パリンッ!


硬質な破裂音が、静寂な薔薇園に響き渡る。


砕け散った硝子の破片が、月光を浴びてキラキラと輝く。


まるで、私の砕け散った心の破片のように。


視界が揺れる。


慣れないアルコールが脳を麻痺させ、平衡感覚を奪っていく。


足元がふらつき、私はよろめきながら立ち上がった。


本当は、お酒なんて嫌いだった。


苦くて、頭が痛くなるだけの毒水。


けれど今は、その毒が愛おしい。


思考を鈍らせ、痛みをぼやかしてくれるなら、それは救いなのかもしれない。


ふらりと踏み出した足の裏に、鋭い痛みが走った。


裸足のまま、硝子の破片を踏み抜いたのだ。


鋭利な刃が柔らかな皮膚を裂き、肉へと深く食い込む。


だが、不思議と不快ではなかった。


むしろ、その鮮烈な痛みが、私がまだ生きていることを教える唯一の証のように感じられた。


膝から崩れ落ち、私は地面に座り込む。


ドレスの裾から、赤い血がじわりと滲み出し、白い花びらのように広がっていく。


温かい。


自分の血だけが、この冷たい世界で唯一、温もりを持っていた。


もう、いいよね。


十分に頑張った。


限界まで演じきった。


リリスの役目は、終わったのよ。


私の手は、意思を持った生き物のように、足元に落ちていた硝子の破片を拾い上げた。


鋭く尖った、長い切っ先。


これで終わらせれば、もう誰も傷つけなくて済む。


父上の幸せを邪魔する娘はいなくなる。


殿下を悩ませる令嬢もいなくなる。


迷惑かな。


また、笑い者にされるかな。


『公爵令嬢が、祝賀会の最中に自殺なんて』と、眉をひそめられるかしら。


「……ごめんなさい、父上」


「ごめんなさい、ロキナ」


「ごめんなさい、お母様」


震える唇で、謝罪の言葉を紡ぐ。


私は、本当に……苦しいの。


もう、息をしているだけで、胸が張り裂けそうなの。


私は硝子の破片を強く握りしめ、その切っ先を、脈打つ左手の手首へと押し当てた。


冷たい刃の感触。


あとは、力を込めて引くだけ。


たったそれだけで、この灰色の悪夢から覚めることができる。


指先に力が籠もる。


皮膚が凹み、痛みが走る直前の、張り詰めた静寂。


「――さようなら」


誰にも届かない別れの言葉と共に、私は目を閉じた。

【作者から、ひとつだけお願いです】


少しでも、

「何かが残った」

「続きを見てみたい」

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