第45話 完成された幸せ
王家仕様のドレスを身に纏い、私は鏡の前に立った。
深紅のベルベットに、無数のルビーが散りばめられた豪奢なドレス。
蒼白だった頬には紅を引き、瞳にはかつての強い光が宿っている。
鏡の中の私は、どこからどう見ても「完璧な公爵令嬢」だった。
これなら、誰の隣に立っても恥ずかしくない。
父上の隣でも。
そして――殿下の隣でも。
会場の扉が開かれた瞬間、光と音の奔流が私を包み込んだ。
シャンデリアの煌めき、楽団の奏でる優雅なワルツ、グラスが触れ合う軽やかな音。
そして、私が入場したことに気づいた人々からの、一斉に向けられる視線。
「あ、リリス様だわ……!」
「なんて美しい……病み上がりとは到底思えない」
「聞いたか?テストを途中で抜けたのに、二位だったそうだぞ」
「まさに天才だ……タロシア家の至宝だよ」
さざ波のように広がる称賛の声。
羨望、畏敬、感嘆。
それらの視線は、心地よいシャワーのように私の肌を撫でた。
私は背筋を伸ばし、優雅な微笑みを浮かべてホールを進む。
そう、これよ。
これが私の居るべき場所。
努力の果てに手に入れた、私だけの玉座。
人々が道を開ける。
誰もが私に傅く。
私は肯定されている。
愛されている。
求められている。
高揚感が、血管の中を駆け巡る。
「リリス様!おめでとうございます!」
ファティーナが駆け寄ってくる。
「すごいわ、本当にすごい!私、リリス様が誇らしいです!」
「ありがとう、ファティーナ」
私は慈愛に満ちた聖女のような笑みを返す。
すべてが順調だ。
世界は私のために回っている。
あとは、父上を見つけるだけ。
父上にこの喜びを報告し、褒めていただくのだ。
そして、殿下にも感謝を伝えなければ。
視線を巡らせる。
父上はどこ?
ホールの中心にはいない。
壁際にもいない。
ふと、バルコニーの方角から、楽しげな笑い声が漏れ聞こえてきた。
カーテンが半分開け放たれたそこには、王族専用の特別な空気が漂っている。
あそこだわ。
殿下と父上が、一緒にお話されているのかもしれない。
私の話題で盛り上がっているのかもしれない。
期待に胸を膨らませ、私は足早にバルコニーへと近づいた。
人垣を避け、カーテンの隙間から中を覗き込む。
その瞬間。
私の足は、見えない楔で床に縫い付けられたように止まった。
そこには、確かに父上がいた。
そして、カシリア殿下もいた。
けれど、私が想像していた光景とは、何もかもが違っていた。
月光が降り注ぐバルコニー。
その手すりに寄りかかり、腹を抱えて笑っているカシリア殿下。
いつも氷のように冷徹な殿下が、あんなにも無防備に、子供のように笑っている。
その視線の先にいるのは、私ではない。
サファイア色のドレスを着た、美しい少女。
健康的な小麦色の肌、跳ねるような金色の髪、そして何より――太陽のように眩しく、屈託のない笑顔。
彼女の手には、食べかけの肉料理が握られている。
行儀が悪い。
品がない。
貴族としてあるまじき振る舞い。
なのに、なぜ?
なぜあんなにも、輝いて見えるの?
「あはは!だから言ったじゃん、殿下なんて堅苦しい呼び方やめなって!」
少女が快活に笑い、殿下の肩を叩く。
不敬だ。
処罰されるべきだ。
けれど殿下は、それを咎めるどころか、愛おしそうに彼女を見つめている。
「全くだ。君には敵わないな、エリナ」
エリナ。
その名が、呪いの言葉のように私の鼓膜を震わせた。
前世で私の全てを奪った、あの少女。
運命の歯車が、狂った音を立てて回り始める。
視線を少しずらすと、そこにはさらに残酷な光景があった。
二人のやり取りを、少し離れた場所から見守る男女。
父上と――見知らぬ美しい女性。
いえ、見知らぬ人ではない。
前世の記憶にある、エリナの母、ミカレンだ。
ミカレンは困ったように、しかし誇らしげに娘を見つめている。
そして父上は。
カスト公爵は、その二人を包み込むように立っていた。
その瞳に宿っているのは、私が一度として向けられたことのない種類の光。
心の底からの安らぎ。
義務感も、罪悪感も、悲しみもない。
ただ純粋な、愛情と幸福に満ちた眼差し。
「……ああ、なんと愛らしい」
父上の唇が動き、そう呟くのが聞こえた気がした。
それは私に向けられた言葉ではない。
あの野暮ったく、無作法で、けれど命の輝きに満ちた少女に向けられたものだ。
完璧だった。
月明かりの下、四人が織りなす構図は、一枚の宗教画のように完成されていた。
若く美しい王子と、天真爛漫な少女。
それを慈愛を持って見守る両親。
そこには、誰も入り込む余地などない。
一点の曇りもない、「幸福な家族」と「祝福された恋人たち」の姿。
私のドレスのルビーが、カチャリと音を立てた気がした。
重い。
貴重な宝石も、最高級のベルベットも、今の私にはただの冷たい石と布切れに過ぎない。
私が命を削って手に入れた「テストの二位」という栄光。
その紙切れ一枚が、あのバルコニーにある「温もり」の前では、どれほど無価値なものか。
称賛の声が遠のいていく。
音楽が歪み、不協和音となって耳を劈く。
世界が、音を立てて崩れ落ちていく。
私は知っていたはずだ。
父上が私を見る瞳の奥には、いつも母上への贖罪と、私への憐憫があったことを。
けれど、あそこにはそれがない。
父上は、ただ「エリナの父」として、幸せそうに笑っている。
私がどれだけ努力しても、どれだけ完璧を演じても、決して手に入れられなかったものが、あそこには当たり前のように存在している。
「……あ」
唇から、乾いた音が漏れた。
認めなければならない。
私は、要らない子なのだと。
この世界という舞台において、私は主役でもなければ、ヒロインでもない。
ただ、あの輝かしい「本物の家族」を引き立てるための、惨めで滑稽な道化役。
邪魔者。
異物。
影。
殿下のあの笑顔も、父上のあの安らぎも、私のいない場所でしか咲かない花なのだ。
膝から力が抜ける。
煌びやかなパーティー会場の真ん中で、私は独り、極寒の荒野に放り出されたように立ち尽くしていた。
誰か。
誰か、私を見て。
「二位おめでとう」と、あの輪の中から私に声をかけて。
けれど、誰も振り返らない。
カーテンの向こう側の世界は、あまりにも遠く、眩しく、そして閉ざされていた。
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