362.娘に失敗を
九歳になったリリスは、以前にも増して冷酷な合理主義を身につけていた。
彼女の思考回路には、他者を思いやる感情や、道徳的な罪悪感が完全に欠落している。
どれほど非情な行いであっても、それがタロシア公爵家、あるいは彼女自身の「利益になるから」という理由一つで完璧に正当化してしまう。
貧しい平民を玩具にし、使用人を使い潰すことも、彼女にとっては数値を合わせて利益を最大化するゲームでしかないのだ。
私は自室の鏡の前で、ひどく血色の悪い自分の顔を見つめ、ついに悟った。
この子を言葉で教え導き、善良な人間に変えることは、もう不可能だ。
善悪の概念そのものが、あの娘の中では金貨の重さでしか計れないのだから。
しかし、このまま彼女の思い上がりと特権意識を放置すればどうなるか。
彼女は自分の地位を過信し、いずれ貴族社会そのものを敵に回し、タロシア公爵家を滅ぼす大事件を引き起こすだろう。
そして公爵家が傾けば、実家へ密かに資金を流している私の計画も破綻し、私の身の安全すらも奪われる。
それだけは、絶対に避けなければならない。
だから私は、ある決断を下した。
致命的な破滅が訪れる前に、一度だけ彼女に明確な「失敗」を経験させる。
自分が絶対の権力者ではないことを痛感させ、それをきっかけに、手綱を握り直して厳しい教育を施すのだ。
幸運なことに、その絶好の機会がすぐに訪れた。
王都でも有数の権力を誇る、エース侯爵家の令嬢の誕生日会への招待状がタロシア邸に届いたのだ。
本来であれば、私かカスト様が同伴して赴くべき重要な夜会。
だが、私は体調不良を理由に辞退し、リリスにタロシア公爵家の名代として出席させることにした。
そして出発の数日前、私はリリスの護衛として同行する騎士を私の私室へ呼び出した。
「サリス様。お呼びでしょうか」
忠実な騎士が頭を下げる。
私は彼に銀貨の入った小袋を握らせ、声を潜めて指示を出した。
「よく聞いてちょうだい。今回リリスが向かうエース家だけれど、あの家は侯爵を名乗ってはいるものの、実態は地方の取るに足らない男爵家に過ぎないの。王都での影響力は皆無よ。だから、リリスにもそのように伝えておきなさい」
騎士は一瞬戸惑った顔を見せたが、金貨の重みと公爵夫人である私の言葉を疑うことはなかった。
「承知いたしました。お嬢様には、そのようにご説明いたします」
その誤情報は、馬車での移動中、騎士からごく自然な会話の流れでリリスの耳へと届けられる手はずだ。
タロシア公爵家という絶対的な後ろ盾を持ち、相手は地方の弱小男爵家。
その条件が揃えば、リリスがどれほど横暴に振る舞うか、私には手に取るように予測できた。
パーティー当日。
エース侯爵邸の大広間には、王国内の有力貴族だけでなく、他国からの来賓も多数招かれていた。
シャンデリアの光が降り注ぐ中、豪華なドレスを着飾ったリリスは、タロシア公爵家の令嬢として堂々と会場の視線を集めていた。
宴の半ば、エース侯爵が広間の中央にある小さな舞台へと進み出た。
「皆様。本日は娘の誕生日にご出席いただき、心より感謝申し上げます」
侯爵の合図と共に、従者が黒いビロードの布がかけられた小さな台座を運んでくる。
布が取り払われると、そこには人の拳ほどもある、深く澄み切った青色の宝石が鎮座していた。
「これは先日、海を隔てた他国の使者より、我がメニア王国と我が家との末永い友好の証として贈られた、希少なサファイアでございます」
広間に感嘆の溜息が漏れる。
光を吸い込んで内側から発光しているかのようなその宝石は、間違いなく国宝級の価値を持つ品だった。
リリスの赤い瞳が、そのサファイアを捉えて鋭く光る。
彼女の頭の中で、瞬時にあの宝石の価値と、自分自身の特権が天秤にかけられたのだ。
リリスは手に持った扇を閉じ、広間の中央へと優雅な足取りで歩み出た。
周囲の貴族たちが道を空け、彼女に注目する。
「エース様。とても美しい宝石ですわね」
リリスはサファイアの前に立つと、侯爵に向かって愛らしい笑みを向けた。
「公爵令嬢にそうお褒めいただき、光栄の至りに存じます」
侯爵が丁寧に頭を下げた瞬間、リリスは平然と言い放った。
「私、その青い石がとても気に入りましたの。ぜひ、私に譲ってくださいな」




