359.その子の値段は?
貧民街の広場で見た惨状から逃げるように、私はタロシア公爵邸へと走り戻った。
乱れた息を整える間も惜しみ、重いドレスの裾を握りしめて長い廊下を進む。
目指すのは、当主であるカスト様の執務室だ。
あの小さな娘が、外の世界で何をしているのか。
公爵家の富と権力を使って、平民の子供たちに血を流させ、互いを傷つけ合わせる遊戯に興じている。
その恐ろしい事実を、すぐに父親であるカスト様に伝えなければならない。
私は執務室の厚い木扉の前に立ち、拳を振り上げた。
しかし、その手が扉の板を叩く直前で、ピタリと空中で停止した。
カスト様に、何と報告するのか。
私が娘の異常な教育を放棄し、外の平民相手なら何をしてもよいと容認したことを話すのか。
娘の凶行を知ったカスト様が激怒し、屋敷の金回りを詳しく調査し始めたらどうなるか。
私が密かに実家のアルバレス男爵家へ流し続けている公爵家の資金。
その不正な裏工作の痕跡が、必ず見つかってしまう。
そうなれば、私はカスト様の信頼を永遠に失い、次期当主を産む道具としての価値すら剥奪され、この華やかな公爵邸から追放される。
振り上げた拳が、かすかに震える。
私は金と権力のために、自分の心を殺してまでこの地位を手に入れたのだ。
それを、あの不気味な娘のせいで全て失うわけにはいかない。
震える拳をゆっくりと下ろし、私は逃げるように執務室の前から立ち去った。
自らの保身を、娘の暴走を止めることよりも優先したのだ。
カスト様に真実を告げられなかったその日から、私の精神は休まることがなくなった。
見て見ぬふりをした罪悪感と、娘の悪意がいつ公爵家の破滅を招くかわからないという極度の不安。
リリスは相変わらず、父親の前では愛らしい娘を演じ、無邪気な笑顔で甘いお菓子を頬張る。
専属の取り巻きを引き連れては街へ出掛け、誰から見ても、少しわがままな令嬢にしか映らない。
――そして、月日はあっという間に流れた。
リリスは八歳になっていた。
好きなものを好きなだけ食べ、誰にも止められることなく欲望のままに生きてきた結果なのだろう。
幼い頃の面影は薄れ、頬は丸々と膨らみ、身体には贅肉が付き始めている。
年齢に見合わぬ体格は、令嬢らしい可憐さとは程遠く、見る者に強烈な違和感を与えるほどだった。
そんな姿を目にするたび、私の胸は嫌な予感で締め付けられた。
もう、じっとしてはいられなかった。
私は居ても立っても居られず、地味な衣服に着替え、数日おきに彼女の馬車を尾行するようになった。
娘が今日、誰を標的にするのか。
その異常な遊戯がどこまでエスカレートするのかを、己の目で確認せずにはいられなかったのだ。
薄暗い雲が空を覆う日の午後。
リリスの一行は、王都の郊外にあるさらに寂れた裏通りを訪れていた。
私は少し離れた建物の陰に隠れ、息を殺して様子を窺う。
今回の標的は、子供たちではなかった。
日々の労働に疲れ果て、着古した服を纏った平民の大人たちだ。
彼らは公爵家の紋章が刻まれた馬車と、武装した騎士たちを見て完全に萎縮している。
リリスは専属メイドが用意した椅子にゆったりと腰を下ろし、集まってきた大人たちを見回した。
「皆さん、生活がとても苦しそうですわね。税の取り立てや、日々の食事のやりくりで大変なのでしょう?」
七歳の子供とは思えない、大人びた計算を含んだ声。
リリスはメイドに合図を送り、重そうな革袋を二つ、地面に置かせた。
袋の口が開かれ、中から鈍い輝きを放つ銀貨と銅貨が大量に溢れ出す。
貧しい大人たちの目の色が変わるのが、遠目からでもはっきりとわかった。
「お屋敷の領地管理の記録を見ましたの。ここにいる皆さんは、借金でお首が回らないと書いてありましたわ」
リリスは手元の扇を開き、口元を隠して笑う。
「私が一声かければ、あなた方の借金を全て帳消しにし、さらにこのお金を差し上げます。その代わり……」
リリスの視線が、大人たちの背後に隠れるようにして立っている、薄汚れた子供たちへ向けられた。
「あなたのその子供を、私にいくらで売ってくださる?」
空気が凍りついた。
大人たちは顔を見合わせ、戸惑いの表情を浮かべる。
「ご冗談を……お嬢様。いくら貧しくても、自分の子を売るだなんて」
一人の男が震える声で答えると、リリスは冷たく言い放った。
「本当にそうでしょうか。もう自分たちが生きていられないのに、無理に一緒にいて全員で死ぬより、売ったほうが子供のためにもいいんじゃないかしら?」
リリスの言葉は、恐ろしいほどに理路整然としていた。
「私に買われた子供は、公爵家の奴隷として働くことになりますけれど、少なくとも毎日温かいパンを食べられますわ。皆さんの元で泥をすするより、ずっと幸せだと思いません?」
悪魔の囁きだった。
親の罪悪感を巧妙に薄れさせ、金を手に入れる正当性を与える言葉。
数人の大人の目に、明らかな迷いと、金貨への強い執着が浮かび上がる。
「さあ、お値段をつけなさいな。五銀貨? 十銀貨? あなたにとって、その子供の命と人生は、一体いくらの価値があるのかしら」
一人の母親が、泣き崩れながら銀貨の山へ手を伸ばした。
「お、お許しください……。この子には、少しでも良い暮らしを……」
母親は自分の娘をリリスの騎士へと差し出し、代わりに銀貨の入った袋を掴んで逃げ出した。
それを見た他の親たちも、次々と子供の値段を叫びながら、金へ群がっていく。
売られた子供たちの悲鳴が響き渡る。
親に金で手放された絶望と恐怖。
リリスは椅子に座ったまま、人間が最も尊い絆を金で断ち切り、醜く堕落していく様を、心底楽しそうに眺めていた。
その光景を見た瞬間、私の胸の奥で塞ぎ込んでいた冷たい記憶が強烈に蘇った。
倒産寸前の男爵家で、借金返済のために親から値段をつけられ、持参金目当てで売られる運命だった自分自身。
貴族として生き残るため、子供を金に換金して当然だと語った両親の顔。
今のリリスがやっていることは、私が最も恐れ、逃げ出したかった地獄そのものだ。
人間の尊厳を金で量り、家族の絆を平然と切り刻む。
それを、私の腹から生まれた娘が、ただの退屈しのぎの遊戯として実行している。
権力への陶酔も、公爵夫人としての保身も、全てが吹き飛んだ。
限界だった。
これ以上、この狂気を直視することはできない。
「やめなさい!」
気づけば、私は隠れていた建物の陰から飛び出し、広場の中央へと駆け出していた。
私の突然の登場に、騎士もメイドも、そして金に群がっていた平民たちも驚きに動きを止める。
リリスだけが、目を丸くして私を見つめていた。




