358.貧民街の遊戯
ここは、日雇いの労働者や貧しい者たちが寄り集まって暮らす貧民街の入り口だった。
公爵家の令嬢が、なぜこのような汚れた場所へ来るのか。
不安で喉の奥がカラカラに乾く。
馬車が広場の手前で停車し、中から護衛の騎士とメイドに付き添われたリリスが降りてきた。
私は少し離れた建物の陰に身を潜め、息を潜めて彼女たちの行動を監視した。
広場には、汚れた服を着た痩せこけた子供たちが何人も集まっていた。
彼らはリリスの姿を見つけると、何かに怯えながらも、同時に強い期待を含んだ目で彼女を取り囲む。
リリスの隣に立つメイドが、持っていた大きな籠の布を払った。
中には、まだ湯気を立てている、ふっくらと焼き上がった甘いパンがいくつも入っていた。
甘く香ばしい匂いが広場に漂う。
貧しい子供たちの喉が鳴る音が、私の隠れている場所まで聞こえてきそうだった。
「さあ、皆さん。今日のお遊びの時間ですわ」
リリスが、高く甘い声で宣言した。
子供たちが一歩、パンの入った籠へと近づく。
「でも、ただであげるわけにはいきません。いつものルール、覚えていますわよね?」
リリスが丸い指先を立てて見せると、子供たちは互いの顔を見合わせ、躊躇いの表情を浮かべた。
「この甘くて美味しいパンが欲しいなら、お友達の顔を思い切り殴りなさい。一番強く殴って、一番相手を泣かせた人に、このパンを全部あげますわ」
その言葉を聞いて、私は自分の耳を疑った。
幼い子供の口から発せられたとは到底思えない、あまりにも悪意に満ちた提案。
だが、リリスの専属騎士もメイドも、それを止めるどころか、面白い見世物でも見るように笑っている。
広場の中心で、一人の痩せた男の子が、隣にいた同じ年頃の男の子の胸倉を掴んだ。
「ご、ごめん。オレ、昨日から何も食ってなくて、妹にも……」
「やめろよ! オレたち、ずっと一緒に……!」
叫び声と共に、鈍い音が響いた。
痩せた男の子の拳が、友達の頬を殴りつけたのだ。
殴られた子供は土の地面に倒れ込み、口から血を流して泣き出した。
「ああ、ダメですわ。まだ弱いですわよ。もっと、もっと強く殴らないと、パンはあげられません」
リリスはパンの入った籠を少しだけ持ち上げ、楽しそうに笑い声を上げた。
「ほら、あの子も参加しなさい。お腹が空いているのでしょう?」
リリスに促され、周囲にいた他の子供たちも、ためらいながらも互いに取っ組み合いを始めた。
生きるための食料を得るために、なけなしの友情や絆を自らの手で壊していく。
広場はあっという間に、子供たちの悲鳴と泣き声、そして暴力の音で満たされた。
それを見下ろすリリスの顔には、この世の全ての快楽を味わっているような、純粋で無邪気な悦びが浮かんでいた。
彼女は、貧しい者たちの命と尊厳を天秤にかけ、人間が最も醜く壊れていく瞬間を娯楽として消費しているのだ。
「……ひっ」
私の口から、声にならない短い悲鳴が漏れた。
建物の壁に寄りかかる力が抜け、その場に崩れ落ちそうになる。
彼女たちの会話の端々から、これが今日初めて行われたわけではないことがはっきりと分かった。
彼らは頻繁にこの場所を訪れ、この悪趣味なゲームを繰り返しているのだ。
私は自分の保身のために、屋敷の平穏を守るために、娘に「庶民になら何をしてもいい」と容認してしまった。
その結果が、これだ。
私の腹から生まれた娘は、私の想像を遥かに超える冷酷な怪物へと成長していた。
権力と金で他者を支配し、その苦痛を甘いお菓子を食べるのと同じ感覚で楽しんでいる。
これは、私が作り出した地獄だ。
子供たちの泣き声と、リリスの楽しげな笑い声が混ざり合い、私の鼓膜を容赦なく叩き続ける。
私は震える両手で自分の口を強く塞いだ。
冷たい恐怖が足元から這い上がり、私の心臓をきつく鷲掴みにする。
鼓動が止まり、全身の血液が凍りつく感覚。
私は、決して見てはならない、そして一生忘れられない光景を、その目に深く刻み込まれてしまったのだ。




