356.怪物と、私は「取引」をした
数日後、リリスの振る舞いについて私に相談に来たあの新人のメイドが、青ざめた顔で屋敷を去っていったのだ。
彼女の担当する仕事で次々と信じられないような失敗が重なり、メイド長から厳しく叱責され、自主退職に追い込まれたらしい。
リリスが直接手を出した証拠はどこにもない。
しかし、あの小さな子供が、自分を注意させた相手を意図的に陥れ、確実に屋敷から排除したのだと、私は直感で理解した。
怖い。
私の腹から生まれたこの小さな娘が、底知れず恐ろしかった。
もし、この子の異常性がカスト様に露見したら。
タロシア公爵家の跡取りを産めず、娘の教育すらまともにできない無能な妻だと判断されれば、私の居場所はなくなってしまう。
公爵夫人としての地位。
実家であるアルバレス男爵家への秘密の資金援助。
私が血を吐くような思いで手に入れた全てが、この娘の気まぐれな悪意によって崩れ去ってしまう。
絶対に、カスト様にバレてはいけない。
私室のソファに腰を下ろし、私は重い頭を抱え込んだ。
どうすればいい。
どうすれば、あの小さな怪物を御すことができる。
私は幼い頃から、倒産寸前の実家を救うため、金と権力のことだけを考えて生きてきた。
自分の心を殺し、上位の貴族たちの顔色を窺い、相手の望む言葉を吐いて生き延びてきた。
だから、人を純粋に愛し、慈しみ、子供に正しい道を教え導く方法など、誰からも教わっていない。
愛情の注ぎ方を知らない私に、あの利己的で残酷な娘を正しく育てることなど不可能なのだ。
いくら考えても答えは出ず、頭の芯が割れるように痛み出す。
私には、母親としての才能がない。
道徳や倫理を説いたところで、あの娘には一切響かない。
あの娘は私と同じ、いや、私以上に計算高く、冷酷なのだから。
ならば、どうすれば彼女の行動を制限できるのか。
熟考の末、私は一つの結論に辿り着いた。
ならば、私が最も得意とする方法。
つまり、利害を一致させる『交渉』によって事態を制御するしかない。
私は翌日の午後、リリスを再び私の私室へ呼び出した。
彼女はいつもと変わらぬ、穢れを知らない完璧な笑顔で私の前に立った。
「リリス。よく聞きなさい」
私は震える声帯を必死に抑え込み、冷徹な公爵夫人の声音を張り上げた。
「あなたが欲しがるもの、叶えてほしい願いは、お母様ができる限り全て満足させてあげます」
リリスは小首を傾げ、私の言葉の続きを待つ。
「ドレスでも、宝石でも、外国の珍しいお菓子でも、何でも用意します。あなたが屋敷で自由に楽しく過ごせるように手配しますわ」
そこで私は一呼吸置き、鋭い視線を娘へ向けた。
「ですが、その代わり。屋敷の中の人間、家庭教師の貴族や、メイド、使用人への嫌がらせは一切禁止します。カスト様にあなたの悪い噂が届くようなことは、絶対に許しません」
これが私の提示する取引。
物質的な満足と引き換えに、私の立場を脅かす屋敷内での問題行動を封じ込める手段。
リリスは大きな瞳を瞬かせ、私の提案の裏にある意図を瞬時に計算した。
リリスは赤い唇に手を当て、少しだけ考え込む素振りを見せた。
そして、花が咲くような笑みを浮かべ、甘い声で問い返してきた。
「お母様。それって、つまり……お屋敷の中にいる貴族や使用人じゃなくて、外にいる『庶民』なら、何をしても自由に楽しんでいいってことなの?」
心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
言葉に詰まる。
声が出ない。
あの子は、私の提示したルールの抜け穴を、一瞬で見つけ出したのだ。
屋敷の中で騒ぎを起こせば、カスト様や貴族社会の耳に入る。
だから、それを禁止する。
ならば、貴族社会の人間が全く気に留めない、名前もない平民たちを相手に遊ぶ分には、お母様の立場も悪くならないでしょう、と。
娘の残酷な論理の前に、私の全身が冷え切っていく。
貴族として、領民を守るという建前はある。
だが、貴族社会からの評価さえ気にならなければ。
私の地位と実家への横領さえ安全に守られるのなら。
路地裏に転がる庶民のことなど、正直なところ、私にはどうでもよかった。
彼らがどうなろうと、私の華やかな生活には一滴の汚れもつかないのだから。
「そ、そうよ……」
私の口から、掠れた音が漏れ出た。
「だから、お願い。屋敷の中では大人しくすると、お母様と約束してくれる?」
私は震える手を伸ばし、あの子の小さな肩に触れた。
リリスは少しも躊躇うことなく、満面の笑みで頷いた。
「うん! 私も、お母様のことなら何でも聞くわ!」
可愛らしい声が私室に響く。
その完璧に計算された綺麗な微笑みを見た瞬間、激しい眩暈が私を襲った。
目の前が暗く歪み、立っていることも辛くなる。
私は自分の保身のために、娘が平民を虐げることを完全に容認してしまったのだ。
悪意の矛先を外へ向けさせることで、家庭内の平穏を金で買った。
この契約が、いずれ取り返しのつかない破滅を招くであろうことは、頭の片隅で理解していた。
だが、もう後戻りはできない。
カスト様を欺き、この怪物と共に生きていくしかないのだ。




