354.この娘は、私が知っている子ではない
私は無意識のうちに、リリスと同じ空間で過ごす時間を少しずつ減らしていった。
メイドを冷酷に追い詰めたあの日から、あの子に対する得体の知れない恐怖が心の奥にこびりついて離れなかったからだ。
リリスは順調に成長し、それに伴って高位貴族としての教育もさらに増えていた。
自我が芽生える時期と重なり、窮屈な時間から少しばかりの自由を欲しがったのかもしれない。
あの子は、自分より身分が下の中流貴族である家庭教師に対し、はっきりと反発を見せ始めたのだ。
ある昼下がり。
私が別の部屋へ向かうために廊下を歩いていた時、少し開いた扉の隙間からリリスの甘ったるい声が聞こえてきた。
「先生。もうその退屈なお話は終わりにしませんか」
その響きは、相手を完全に下に見ている冷ややかなものだった。
初老の家庭教師は、少し戸惑いながらもたしなめるように答える。
「リリスお嬢様。これは我が王国の歴史と近隣諸国との政治的関係を示す、貴族として必須の教養です。退屈などと申されては困ります」
「でも、何百年も前に死んでしまった人たちの領地争いや、小難しい法律のお話なんて、今の私には全く役に立ちませんわ」
リリスは優雅な手つきでティーカップをソーサーに置き、ふんわりと微笑んだ。
「それよりも、今度王都で流行している宝石の輝きの違いや、南の国から届く珍しいお菓子の作り方を教えてくださいな。私、もっと華やかで美味しい知識が知りたいのです」
「お言葉ですがお嬢様。そのような俗な知識は、歴史や礼儀作法をしっかりと身につけた後で学ぶべきものです」
家庭教師が語気を強めると、リリスはとても大げさに小さくため息をついた。
「先生。あなたは中流貴族だからご存知ないのでしょうけれど、タロシア公爵家では、古い本よりも、新しく手に入れた輝く宝石の方が価値を持つのですわ。私が知りたいことを教えられないのなら、先生にここへ来ていただく意味がありません」
その冷たい言葉に、家庭教師が息を呑む音が廊下にまで響いてきた。
数日後。
プライドの高い家庭教師は、私の私室を訪れ、自ら辞職を申し出た。
彼女の顔には、隠しきれない屈辱と深い疲労が刻まれている。
「サリス様。誠に申し訳ございませんが、私ではリリスお嬢様の教育をこれ以上続けることはできません」
私は表面上は困惑した表情を作りながら、彼女の言葉に耳を傾けた。
「あのお方は、ご自身の身分を笠に着て、学ぶべき物事の価値を己の都合の良いように測っておられます。お言葉ですが、おそらく反抗期も重なっているのでしょう。お嬢様には、私よりもさらに厳しい礼儀教育が必要と見受けられます」
私はどう対応していいのか全くわからず、ただ頭を下げ、丁寧に謝罪することしかできなかった。
十分な慰労金を手渡し、新しい先生を探すと約束して彼女を下がらせた。
私室に一人残された私は、冷え切った両手を強く組み合わせた。
恐怖が静かに胸の底へ溜まっていく。
もし、この教育の失敗がカスト様に知られたらどうなるだろう。
ただでさえ私は次の跡継ぎを産めず、裏で実家に公爵家の資金を流し続けている。
その上、公爵家の娘の教育すらまともにできていないと露見すれば、私の完璧な妻という立場は完全に崩壊してしまう。
私は急いで使用人たちに口止めを行い、根回しを進めた。
カスト様には、家庭教師が実家の事情でどうしても続けられなくなり、やむを得ず屋敷を去ったのだと報告した。
リリスの異常な態度や、先生に対する冷酷な発言は全て隠し通したのだ。
事態はとりあえず収まったが、根本的な解決には全くなっていない。
あの子のこと、一体どうすればいいのだろう。
少しも可愛げがなく、自分の母親すら同情の目で下に見る冷血な娘。
けれど、そんなおかしな悩みを、一体誰に相談できるというのか。
公爵邸にいる使用人たちに漏らせば、一瞬で私の悪い噂が広まり、足元をすくわれる。
実家の家族に話したところで、金の無心しか頭にない彼らが私の苦悩を真剣に聞いてくれるはずもない。
カスト様は日々の業務で忙しく、リリスをただの愛らしい天使だと信じ込んでいる。
私には、誰一人として本音を打ち明ける相手が存在しなかった。
これから先、私はどうやってあの小さな怪物と向き合っていけばいいのだろう。




